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 今日は、江戸時代中期の1734年(享保19)に、読本作者・歌人・国学者上田秋成の生まれた日ですが、新暦では7月25日となります。
 上田秋成(うえだ あきなり)は、大坂曾根崎において、母・松尾ヲサキの私生児(父は定かでない)として生まれましたが、幼名は仙次郎(通称は東作)と言いました。1737年(元文2)、4歳のときに堂島永来町(現在の大阪市北区堂島1丁目)で、紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったものの、翌年に痘瘡にかかり生死をさまよいます。
 青年時代は遊蕩に耽ったとされますが、20歳前後から俳諧に親しみ、高井几圭に師事し、漁焉(ぞえん)の俳号で活躍しました。1760年(宝暦10)に27歳で植山たまと結婚、翌年養父が死亡して嶋屋を継ぎます。
 その一方で、浮世草子『諸道聴耳世間猿 』(1766年)、『世間妾形気 』(1767年)、読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)などを書きながら、賀茂真淵一門の国学者・加藤宇万伎にも師事しました。
 しかし、1771年(明和8)に嶋屋が火事で類焼して破産、加島稲荷の神職方に寄寓して医術を学び、1776年(安永5)に大坂尼崎で開業します。その傍らで、国学研究にも精進し、1786年(天明6)から翌年に、本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行いました。
 この頃から大坂近郊の淡路庄村に隠遁し、著述活動を続けたものの、1790年(寛政2)に57歳で左眼を失明しました。晩年は京都に移って、貧苦の中で国学書や随筆集『胆大小心録』や読本『春雨物語』(ともに1808年)などを著しましたが、 1809年(文化6年6月27日)に、京都において、数え年76歳で亡くなっています。

〇上田秋成の主要な著作

・浮世草子『諸道聴耳世間猿 (しょどうききみみせけんざる) 』(1766年)
・浮世草子『世間妾形気 (てかけかたぎ) 』(1767年)
・読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)
・源氏物語注釈『ぬば玉の巻』(1779年)
・考証『漢委奴国王金印考』(1784年)
・研究『歌聖伝』(1785年)
・戯作『書初機嫌海(かきぞめきげんかい)』(1787年)
・俳文法書『也哉鈔(やかなしょう)』(1787年)
・随筆集『癇癖談 (くせものがたり) 』(1791年成立、1808年刊)
・評論集『安々言(やすみごと)』(1792年)
・匙茶道書『清風瑣言』(1794年)
・研究書『霊語通』(1797年)
・『落久保物語』(1799年)
・『献神和歌帖』(1801年)
・万葉集論『冠辞続貂(かんじぞくちょう)』(1801年)
・古代史論『遠駝延五登(おだえごと)』(1803年頃)
・万葉集注釈『金砂(こがねいさご)』(1804年)
・万葉集注釈『金砂剰言』(1804年)
・『七十二侯』(1805年)
・歌文集『藤簍冊子(つづらぶみ)』(1805年)
・読本『ますらを物語』(1806年)
・読本『春雨物語』(1808年)
・書簡集『文反故(ふみほうぐ)』(1808年)
・随筆集『胆大小心録』(1808年)
・随筆集『自像筥記』(1808年)
・『異本胆大小心録』(1809年)
・『俳調義論』(1809年)