壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇が亡くなった後、大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)との間で、皇位継承をめぐって争われた内乱でした。
大化改新を指導(大海人皇子が補佐)し、668年(天智天皇7) に即位した天智天皇は、671年(天智天皇10)正月に、大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出しました。同年10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ、後事を託されましたが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して、妻(後の持統天皇)子やわずかの従者とともに吉野宮に引退します。
同年12月に天智天皇が近江大津宮で病死し、大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となりました。672年(弘文天皇元年6月24日)に、近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かい、野上(現在の岐阜県関ヶ原町)に行宮を置き、本拠とします。東国の兵を集め、大和で呼応した豪族らとともに、同年7月2日に近江京へ進撃し、7月22日最後の一線であった瀬田川の戦いに勝利しました。
その結果、大津宮は陥落し、大友皇子は自害、右大臣中臣金は斬刑、左大臣蘇我赤兄は流刑となります。勝利した大海人皇子は、翌年2月に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
以後大化の改新が一層強力に推進されて律令体制が整備され、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形成されていきます。
〇壬申の乱関係略年表(日付は旧暦です)
・668年(天智天皇7年1月3日) 天智天皇が即位する
・671年(天智天皇10年正月) 大友皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄と中臣金を左右大臣に任じ、政治の表面から大海人皇子を締出す
・671年(天智天皇10年9月) 天智天皇が病の床に就く
・671年(天智天皇10年10月17日) 大海人皇子は病床の天智天皇に招かれ、後事を託されるが拒否して東宮を辞し、出家剃髪して吉野宮に引退する
・671年(天智天皇10年12月3日) 天智天皇が近江大津宮で病死する
・671年(弘文天皇元年12月5日) 大友皇子は近江朝で即位して弘文天皇となる
・672年(弘文天皇元年6月22日) 大海人皇子は使者を美濃国へ向かわせる
・672年(弘文天皇元年6月24日) 近江朝方の先制攻撃を察知した大海人皇子は美濃国へ向かう
・672年(弘文天皇元年7月2日) 軍勢を二手にわけて、近江京へ進撃を始める
・672年(弘文天皇元年7月7日) 息長の横河で戦端を開く
・672年(弘文天皇元年7月22日) 瀬田川の戦いに大海人皇子方が勝利する
・672年(弘文天皇元年7月23日) 大津宮は陥落し、大友皇子(弘文天皇)は自害する
・672年(天武天皇元年8月25日) 右大臣中臣金らが斬刑に処せられる
・672年(天武天皇元年9月) 大海人皇子は大和の飛鳥へ帰り、浄御原の新宮に入る
・673年(天武天皇2年2月27日) 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる
〇大海人皇子(天武天皇)とは?
飛鳥時代に活躍した第40代とされる天皇です。生年は明らかではありません(631年説がある)が、父・舒明天皇の第3皇子(母・皇極天皇)として生まれ、名は大海人 (おおあま) と言いました。
668年(天智天皇7)に、兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助けたとされています。671年(天智天皇10)に重病となった天智天皇が後事を託そうとしましたが、病気平癒祈願ため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもりました。
天智天皇の死後、672年(弘文天皇元)6月に挙兵し、鈴鹿と不破の関をふさいで東国の兵を動員して戦い、約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)を自殺させて勝利を得ます(壬申の乱)。
翌年2月27日、飛鳥浄御原宮にて即位し、天智天皇の子の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后としました。天皇中心の政治の確立をめざして、改新事業の推進、律令体制の強化に努め、675年(天武天皇4)には、諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行います。
681年(天武天皇10)に、「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始めました。豪族たちを統制するための官僚化にも努め、684年(天武天皇13)に八色の姓の制を定め、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定します。
このように、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を整備してきましたが、686年(朱鳥元)に飛鳥で亡くなり、墓所は檜隈大内陵(現在の奈良県明日香村)として造られました。