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 今日は、江戸時代後期の1857年(安政4)に、江戸幕末の老中・備後福山藩主阿部正弘の亡くなった日ですが、新暦では8月6日となります。
 阿部正弘(あべ まさひろ)は、1819年(文政2年10月16日)に、備後福山藩第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれました。1826年(文政9)に父・正精が亡くなり、兄・正寧が家督を継ぎましたが、病弱だったため、1836年(天保7)に隠居し、家督を譲られ、19歳で第7代藩主となります。
 藩政については、江木鰐水を登用して改革に当たらせ、江戸と福山に藩校誠之館を設立して教学の充実を図りました。1838年(天保9)に江戸幕府の奏者番に任じられ、1840年(天保11)には22歳で寺社奉行となります。
 感応寺の破却などで治績をあげ、1843年(天保14)に25歳の若さで老中に抜擢されました。水野忠邦の失脚後、1845年(弘化2)に老中首座となり、1852年(嘉永5)には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増されます。
 1853年(嘉永6)のペリー来航に際し開国を決意し、江戸幕府と徳川斉昭、松平慶永、島津斉彬ら有力諸侯との協調路線をとって従来の幕政の姿勢を転換し、朝意を伺うなど国論統一に腐心して、翌年「日米和親条約」(神奈川条約)を締結しました。その中で、品川台場の構築・軍艦の発注、講武所・洋学所(蕃書調所)、長崎海軍伝習所などを設置し、洋式軍制改革を進めるなどの開明的政策を行います。
 しかし、譜代門閥層からの抵抗を招き、その妥協を図って、1855年(安政2)には、堀田正睦に老中再任を求め、主座を譲りました。翌年、外国事務取扱も正睦に兼務させて第一線を退いたものの、1857年(安政4年6月17日)に、江戸において、老中在任のまま39歳で急死しています。

〇阿部正弘関係略年表(日付は旧暦です)

・1819年(文政2年10月16日) 備後福山藩第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷で生まれる
・1826年(文政9年6月20日) 父・正精が亡くなり、兄・正寧が家督を継ぎ、第6代藩主となる
・1836年(天保7年12月25日) 兄・正寧が隠居し、家督を譲られ、19歳で第7代藩主となる
・1837年(天保8年) 福山へのお国入りをする
・1838年(天保9年9月1日) 江戸幕府の奏者番に任じられる
・1840年(天保11年5月19日) 寺社奉行見習となる
・1840年(天保11年11月) 22歳で寺社奉行となる
・1843年(天保14年閏9月11日) 25歳の若さで老中に抜擢される
・1844年(天保15年5月) 江戸城本丸焼失事件が起こる
・1845年(弘化2年9月) 水野忠邦の失脚後、老中首座となる
・1845年(弘化2年) 海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせる
・1846年(弘化3年) アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀へ来航して通商を求めたが、鎖国を理由に拒絶する
・1852年(嘉永5年) 江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される
・1853年(嘉永6年6月) ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領の親書を携えて浦賀へ来航する
・1853年(嘉永6年7月) 長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求める
・1853年(嘉永6年8月) 諸大名に品川台場などの築造を命じる
・1853年(嘉永6年9月) 江戸幕府が大船建造の禁を解く
・1854年(嘉永7年1月16日) ペリーが再来日する
・1854年(嘉永7年3月3日) 「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する
・1855年(安政2年10月9日) 堀田正睦に老中再任を求め、老中主座を譲る
・1856年(安政3年) 外国事務取扱も正睦に兼務させて第一線を退く
・1857年(安政4年6月17日) 江戸において、老中在任のまま39歳で急死する