毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の1497年(明応6年3月14日)に、室町幕府御家人で安芸郡山城主(現在の広島県安芸高田市吉田町)だった毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれましたが、幼名は松寿丸と言いました。
1501年(文亀元)には実母が死去、1506年(永正3)には10歳で父・弘元を亡くします。長兄・興元が家督を継いでいましたが、1516年(永正13)の興元急死後、家督は甥の幸松丸に譲られるなど不遇な時代を過ごします。
しかし、1523年(大永3)に幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となりました。初めは出雲の尼子晴久に属していましたが、1525年(大永5)以降は尼子氏と絶って、周防大内氏に属します。
1529年(享禄2)に安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承しました。1540年(天文9)には、尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されましたが、籠城戦の末に翌年これを撃退、さらに安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出します。
1546年(天文15)に長男隆元に家督を譲って隠居しましたが、その後見として実権は放さず、1550年(天文19)に三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石としました。1551年(天文20)に大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従ったものの、1555年(弘治元)の厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置きました。
1557年(弘治3)には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ、さらに1566年(永禄9)には出雲富田城の尼子義久を降伏させます。その領国は山陰、山陽の10ヶ国と九州、四国の一部をも服務一大勢力を形成しましたが、1571年(元亀2年6月14日)に安芸郡山城において、数え年75歳で亡くなっています。
〇毛利元就関係略年表(日付は旧暦です)
・1497年(明応6年3月14日) 安芸郡山城主の毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれる
・1500年(明応9年3月) 父・弘元が隠居し、嫡男の毛利興元に家督を譲る
・1501年(文亀元年12月) 実母(福原広俊の娘)が死去
・1506年(永正3年1月) 10歳で父・弘元を亡くす
・1511年(永正8年8月) 元服して、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立てる
・1516年(永正13年) 長兄・興元が急死し、家督は甥幸松丸に譲られる
・1523年(大永3年) 幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となる
・1525年(大永5年3月) 尼子氏と絶って、周防大内氏に属する
・1529年(享禄2年) 安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承する
・1537年(天文6年12月) 長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す
・1540年(天文9年) 尼子晴久の大軍に郡山城を包囲される
・1541年(天文10年1月) 籠城戦の末に尼子晴久軍を撃退する
・1541年(天文10年5月) 安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出する
・1542年(天文11年) 翌年にかけて大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する
・1546年(天文15年12月) 長男隆元に家督を譲って隠居し、後見として実権は握る
・1550年(天文19年7月) 重臣井上氏一族誅伐を契機に家中支配権を確立する
・1550年(天文19年) 三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据える
・1551年(天文20年9月) 大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従う
・1553年(天文22年) 石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して、晴賢と断交する
・1555年(弘治元年10月) 厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置く
・1557年(弘治3年4月) 陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させる
・1557年(弘治3年11月) 毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子に結束を説いた教訓状を書く
・1566年(永禄9年11月) 出雲富田城の尼子義久を降伏させる
・1571年(元亀2年6月14日) 安芸郡山城において、数え年75歳でなくなる