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 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、江戸幕府により「一国一城令」が出された日ですが、新暦では8月7日となります。
 「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」は、江戸幕府が出した大名統制の法令の一つでした。主として西国諸大名の軍事力を削減する目的で出されたもので、「貴殿御分国中居城ヲハ被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候」と、土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令(立案者は徳川家康)しています。
 その内容は、一国(この場合の「国」は令制国の場合も、大名の領国の場合もある)に、大名の本城(居城)を除くすべての支城を破壊する(例外あり)ことを命じたものでした。その結果、短期間の内に約400の城が壊されたとされます。
 その趣旨は、1ヶ月後に発布された『武家諸法度』第6条「諸国ノ居城、修補ヲ為スト雖、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。」にも同じように禁制を反復し、無断での居城修補を禁じるとともに、新規の築城を厳禁し、諸大名の軍事力の抑圧を主な目的としていました。
 その後、1635年(寛永12)の『武家諸法度』の改正により、この規定は「新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。」(第3条)と、さらに具体的となって、幕府の諸大名統制に相当の効果をあげたとされます。

〇江戸時代前期の江戸幕府による城郭規制

☆『一国一城令』 1615年(慶長20年閏6月13日)発布

「貴殿御分国中居城ヲハ被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候」

 『大日本史料』より

☆『武家諸法度』第6条 1615年(慶長20年7月)発布

「一、 諸国ノ居城、修補ヲ為スト雖、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。」

☆改正『武家諸法度』第3条 1635年(寛永12年6月21日)発布

「一、 新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補スベキ事。」

 以上2つ『御触書寛保集成』より