佐藤紅緑(さとう こうろく)は、明治時代前期の1874年(明治7)7月6日に、青森県弘前で県会議員となった父・佐藤弥六、母・支那(しな)の次男として生まれましたが、本名は洽六(こうろく)と言いました。旧制弘前中学校中退後、1893年(明治26)に上京し、遠縁にあたる陸羯南 (くがかつなん) の書生となります。
翌年日本新聞社に入社、正岡子規の門に入りますが、1895年(明治28)に、病により帰郷して、東奥日報社に入社しました。翌年には東北日報社、さらに河北新報社へと移って主筆となります。
1900年(明治33)に、報知新聞社に入社しますが、俳人としても活躍し、『俳句小史』 (1902年) ほかの俳論書を刊行しました。1905年(明治38)に、新聞記者を辞め、俳句研究会を起こしますが、一方で1906年発表の小説『行火 (あんか) 』、戯曲『侠艶録』により当時全盛の自然主義の新人として認められます。
しかし、次第に大衆小説に転じて、『虎公(とらこう)』(1914年)、『麗人』(1930年)に代表される新聞小説を多く書くようになりました。また、少年少女小説も手掛けるようになり、『あゝ玉杯(ぎょくはい)に花うけて』(1927~28年)、『少年讃歌(さんか)』(1929年)などを「少年倶楽部」に掲載して、好評を博します。
しかし、1949年(昭和24)6月3日に、東京都世田谷区上馬の自宅で、老衰のため75際で亡くなりました。詩人サトウ・ハチロー、小説家佐藤愛子はその子です。
<佐藤紅緑の代表的な句>
・「二人行けど 秋の山彦 淋しけれ」(紅緑句集)
・「蜩に墓 冷ゆるまで 立ち尽くす」
・「鶉鳴く ばかり淋しき 山の畑」
〇佐藤紅緑の主要な著作
・俳論『俳句小史』 (1902年)
・俳論『芭蕉論稿』 (1903年)
・俳論『蕪村俳句評釈(俳句入門叢書)』 (1904年)
・小説『行火(あんか)』(1906年)
・脚本『侠艶録(きょうえんろく)』(1906年)
・小説『虎公(とらこう)』(1914年)
・小説『桜の家』(1917年)
・小説『大盗伝』(1921年)
・小説『荊(いばら)の冠(かんむり)』(1922年)
・少年少女小説『あゝ玉杯(ぎょくはい)に花うけて』(1927~28年)
・少年少女小説『少年讃歌(さんか)』(1929年)
・小説『富士に題す』(1930年)
・小説『麗人』(1930年)
・少年少女小説『莢竹桃(きょうちくとう)の花咲けば』(1930~31年)
・少年少女小説『一直線』(1931年)
・少年少女小説『英雄行進曲』(1934年)