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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、「生田万の乱」が失敗し、国学者生田万が自刃した日ですが、新暦では7月3日となります。
 生田万(いくた よろず)は、1801年(享和元)に上野国館林(現在の群馬県館林市)で、館林藩藩士の父・生田信勝の長男として生まれましたが、本名は国秀と言いました。少年時代には藩校で儒学を学びましたが、詩文に打ち込み、21歳までに『大中道人謾稿』3巻をまとめます。
 その中で、国学を志すようになり、1824年(文政7)に江戸に出て平田篤胤の門に入り、頭角を現して、一時は篤胤の養子となって代講をつとめたこともありました。1827年(文政10)に帰藩し、翌年藩政改革の意見書「岩にむす苔」を上書しますが却下され、藩を追放されます。
 1831年(天保2)、父の死によって赦免されたものの帰藩せず、家督を弟に譲って、上野国太田で国学の私塾厚載館(こうさいかん)を開いて子弟の教育にあたりました。1836年(天保7)、篤胤同門の士に招かれるまま越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)に妻子を伴って移住し、桜園(おうえん)塾を開き、国学を講じます。
 時に天保の大飢饉の真っ最中で、柏崎領民を救うべく数度の嘆願をしましたが、桑名藩柏崎代官は農民救済策を何ら講じませんでした。1837年(天保8年2月19日)に起きた、「大塩平八郎の乱」が伝わるとその影響を強く受けて、同年5月30日に同志5名と共に「生田万の乱」を起こし、翌6月1日に桑名藩領柏崎陣屋を襲撃したものの、失敗します。その際負傷し、自刃しましたが、数え年37際でした。

〇生田万の主要な著書

・『大中道人謾語』
・『岩にむす苔』(1828年)
・『古易大象経伝(こえきだいしょうけいでん)』
・撰述『古学二千文』(1833年)
・『日文伝評論』
・『大学階梯外篇(だいがくかいていがいへん)』
・『良薬苦口』
・『伊米遅能布美』

☆生田万の乱とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8)に、国学者の生田万が同志と共に、越後国柏崎で貧民救済のため起こした反乱です。
 天保の大飢饉のおり、多数の餓死者を出しているにもかかわらず、越後国柏崎では、代官と米商人が結託して米の買占めを行い、農民の貧窮がはなはだしくなりました。現地で桜園(おうえん)塾を開いていた万は、代官へ農民救済の嘆願を続けましたが、聞き入れられない状態が続きます。
 1837年(天保8年2月19日)に起きた、「大塩平八郎の乱」が伝わるとその影響を強く受けて、同年5月30日に、同志5人と共に越後国桑名藩領荒浜村の庄屋の屋敷を襲撃して金品を奪って村民に与えました。そして、柏崎町への同行を誘い、翌日に、新しく加わった14名と共に、「奉天命誅国賊」の旗を掲げ、米の港からの運び出しを図る桑名藩陣屋を襲撃します。
 陣屋側は大混乱に陥りますが、駆けつけた長岡藩兵によって撃ち破られ、万は負傷して自刃しました。同志はその場で殺されたり、自刃し、妻子も捕らわれましたが、自害したとされています。
 乱の翌日より、米価は一時値下がりし、陣屋も飢えている人々に米を与えるなどの対処をしました。