ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年05月

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 安土桃山時代の1575年(天正3)に、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日ですが、新暦では6月29日となります。
 長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
 決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
 現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
 以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』(第八巻)

三州長篠御合戦の事

 五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
 志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
 五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
 信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
 かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
 討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
 中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
 岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。

【注釈】

[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。

<現代語訳>

 5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
 5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
 設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
 5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
 信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
 このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
 5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
 中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
 5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
 また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
 信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。
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 今日は、飛鳥時代の626年(推古天皇34)に、古代の大臣・中央豪族蘇我馬子の亡くなった日ですが、新暦では6月19日となります。
 蘇我馬子(そが の うまこ)は、古代の中央豪族蘇我稲目の子として生まれましたが、生年ははっきりしません。572年(敏達元)の敏達天皇の即位に伴い、大臣に任命され、高句麗使を朝廷に迎え、高句麗外交を始めたとされています。
 584年(敏達天皇13)に、百済からもたらされた石仏像を請い、自宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させました。585年(敏達天皇14)に病気になり、天皇に奏上して仏法を祀る許可を得たものの、疫病が流行したため、物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔することとなります。そして、守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する事件が起きました。しかし、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養します。
 その年の8月に、敏達天皇が崩御すると、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する事態となりました。その後即位した用明天皇は、587年(用明天皇2)に病となり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮ります。
 同年に馬子は、対立する穴穂部皇子と守屋を殺害し、泊瀬部皇子を即位させて崇峻天皇とし、朝廷における地位を確立しました。
 592年(崇峻天皇5)には、東漢駒に崇峻天皇を殺害させ、皇太后であった炊屋姫を推古天皇(初の女帝)とし、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立てて摂政とします。その後は、太子に協力して、603年(推古天皇11)に冠位十二階の制定、翌年に「十七条憲法」の制定、620年(推古天皇28)に、『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事しました。
 しかし、626年(推古天皇34)に、大和において亡くなり、桃原墓に葬られましたが、現在の奈良県明日香村にある石舞台古墳だとする説が有力です。

〇蘇我馬子関係略年表(日付は旧暦です)

・570年(欽明天皇31年) 北陸に高句麗使が来着する
・572年(敏達元年) 敏達天皇即位に伴い大臣に任命される
・572年(敏達天皇元年) 高句麗使を朝廷に迎える
・574年(敏達天皇3年) 高句麗外交を始める
・574年(敏達天皇3年) 白猪屯倉(現在の岡山県落合町)の戸籍整備に努力する
・584年(敏達天皇13年) 百済からもたらされた石仏像を請い、宅の東に仏殿を建てて安置し、高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させる
・585年(敏達天皇14年2月) 馬子は病になり、敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得る
・585年(敏達天皇14年3月1日) 物部守屋と中臣勝海は蕃神を信奉したために疫病が起きたと奏上して仏法禁止を求め、天皇は止めるよう詔する
・585年(敏達天皇14年3月30日) 守屋は自ら寺に赴き、仏塔・仏殿・仏像を破壊、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵、3人の尼を捕らえ鞭打ち刑に処する
・585年(敏達天皇14年6月) 自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許し、3人の尼を返したので、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養する
・585年(敏達天皇14年8月) 敏達天皇が崩御し、葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒する
・587年(用明天皇2年4月) 用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮る
・587年(用明天皇2年6月) 炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害する
・587年(用明天皇2年7月) 馬子は群臣に諮り、物部守屋を滅ぼす
・587年(用明天皇2年8月) 馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とし、炊屋姫は皇太后となる
・588年(崇峻天皇元年) 馬子は善信尼らを百済へ留学させる
・591年(崇峻天皇4年) 崇峻天皇は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送る
・592年(崇峻天皇5年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)を着工する
・592年(崇峻天皇5年10月) 天皇へ猪が献上され、猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集する
・592年(崇峻天皇5年11月) 馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とし、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となる
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔が発せられる
・596年(推古天皇4年) 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(法興寺)が完成し、子の徳善を寺司とする
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階が定められる
・604年(推古天皇12年4月3日) 十七条憲法が制定される
・605年(推古天皇13年) 厩戸皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩宮に移転後も、馬子は飛鳥にあって政治を主導する
・612年(推古天皇20年) 堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を行う
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子(聖徳太子)と共に『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の編纂に従事する
・622年(推古天皇30年) 厩戸皇子(聖徳太子)が死去する
・623年(推古天皇31年) 新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣し、新羅は戦わずに朝貢する
・624年(推古天皇32年) 葛城県の割譲を推古天皇に要求したが、拒否される
・626年(推古天皇34年5月20日) 大和において死去し、桃原墓に葬られる
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 今日は、戦国時代の1565年(永禄8)に、室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀らに攻められて自害した日ですが、新暦では6月17日となります。
 足利義輝(あしかが よしてる)は、1536年(天文5)3月10日に京都東山南禅寺で、第12代将軍だった父・足利義晴の嫡男(母は近衛尚通の娘)として生まれましたが、幼名を菊童丸と言いました。
 1546年(天文15)に、父義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在中、同地で六角定頼の加冠で義藤と名乗り、第13代将軍となります。1548年(天文17)に細川晴元と和睦し、京都へ戻ったものの、翌年に細川晴元が家臣三好長慶との摂津江口の戦いで敗れたため、義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移りました。
 1550年(天文19)に父・義晴が病没したので、家督を継ぎましたが、翌年の三好氏の近江進攻により、坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に逃れます。1552年(天文21)に三好氏との和約ができ、入京を果たしたものの、翌年の霊山の戦で三好長慶に敗れ、再び朽木に幽居しました。
 1554年(天文23)には、従三位に昇叙し、名を義輝と改め、1558年(永禄元)に三好長慶と講和し、再度入京します。将軍の権威回復に執念を燃やし、帰京翌年には上杉景虎、斎藤義竜、織田信長らを在京させて長慶を牽制し、三好政権と小康を保ちました。
 ところが、1564年(永禄7)に三好長慶が没すると、翌年5月19日に、後嗣三好義継とその臣松永久秀に、京都武衛陣の仮御所を急襲され、数え年30歳で自害しています。

〇足利義輝関係略年表(日付は旧暦です)

・1536年(天文5年3月10日) 京都東山南禅寺で、第12代将軍足利義晴の嫡男(母は近衛尚通の娘)として生まれる
・1546年(天文15年7月27日) 従五位下に叙す
・1546年(天文15年11月19日) 正五位下に昇叙し、左馬頭に任官する
・1546年(天文15年12月19日) 元服し、義藤を名乗る
・1546年(天文15年12月20日) 従四位下、征夷大将軍の宣下を受ける
・1547年(天文16年2月17日) 参議に補任し、左近衛中将を兼任する
・1548年(天文17年6月) 細川晴元と和睦し、京都へ戻る
・1549年(天文18年6月) 細川晴元が家臣三好長慶との摂津江口の戦いで敗れたため、義晴父子は晴元とともに再び坂本へ移る
・1550年(天文19年) 東山中尾に築城して京都をうかがう
・1550年(天文19年5月4日) 父・義晴が病没したので、家督を継ぐ
・1551年(天文20年) 三好氏の近江進攻により、坂本からさらに北の山中の高島郡朽木に移る
・1552年(天文21年1月) 三好氏との和約ができ、入京を果たす
・1553年(天文22年8月) 霊山の戦で三好長慶に敗れ、近江朽木に幽居する
・1554年(天文23年2月12日) 従三位に昇叙し、名を義輝と改める
・1558年(永禄元年11月) 三好長慶と講和し入京する
・1564年(永禄7年7月) 三好長慶が没する
・1565年(永禄8年5月19日) 三好義継とその臣松永久秀に京亭を急襲され、数え年30歳で自害する
・1565年(永禄8年6月7日) 死後に従一位、左大臣を贈られる
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 今日は、鎌倉時代の末期1333年(元弘3/正慶2)に、鎌倉幕府第16代執権(最後の執権)北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで、自刃した日ですが、新暦では6月30日となります。
 北条守時(ほうじょう もりとき)は、北条一族で六波羅探題北方だった北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれますが、生年は1295年(永仁3年)とされるものの、はっきりしません。
 1307年(徳治2)に、13歳で従五位下左近衛将監に叙任されますが、父・久時が亡くなっています。1311年(応長元)に 引付衆就任を経ずに、幕府の評定衆となりました。1312年(正和元)に従五位上、1315年(正和4)に正五位下と昇叙し、1319年(元応元)には武蔵守となります。
 1326年(嘉暦元)に嘉暦の騒動が起き、北条一門に執権の引き受け手がいない中で、鎌倉幕府第16代執権となりましたが、実権は北条得宗家の北条高時(第14代執権)や内管領・長崎高資らに掌握されていました。同年に相模守に遷任され、1327年(嘉暦2)に従四位下、1331年(元弘元)に従四位上に昇叙します。
 しかし、1333年(元弘3)に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵すると、討伐に向かった妹婿の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を滅ぼす事態となりました。
 同じ頃、関東で挙兵した新田義貞軍が鎌倉を攻撃し、守時は幕府軍を率いて、新田義貞軍の将、堀口貞満勢と鎌倉小袋坂で戦います。ところが、敗色濃厚となり、数え年39歳で自刃、子の益時も父に殉じて自害しました。その後の22日には、鎌倉幕府の滅亡となります。

〇北条(赤橋)守時関係略年表(日付は旧暦です)

・1295年(永仁3年)? 六波羅探題北方の北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれる
・1307年(徳治2年11月1日) 従五位下左近衛将監に叙任される
・1307年(徳治2年11月28日) 父・久時が亡くなる
・1311年(応長元年6月5日) 幕府の評定衆となる
・1312年(正和元年12月30日) 従五位上に昇叙する
・1313年(正和2年7月26日) 一番引付頭人を兼帯する
・1315年(正和4年12月15日) 正五位下に昇叙し、讃岐守に転任する
・1317年(文保元年12月27日) 二番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年2月18日) 武蔵守に転任する
・1319年(元応元年閏7月13日) 一番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年) 妹の登子が足利高氏(のちの尊氏)の正室となる
・1326年(嘉暦元年3月) 嘉暦の騒動が起きる
・1326年(嘉暦元年4月24日) 鎌倉幕府第16代執権(最後の執権)となる 
・1326年(嘉暦元年8月) 相模守に遷任される
・1327年(嘉暦2年閏9月2日)、従四位下に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 従四位上に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 後醍醐天皇が笠置で2度目の挙兵をする(元弘の乱)
・1332年(元弘2年3月) 後醍醐天皇が挙兵に失敗し、隠岐の島へ配流される
・1333年(元弘3年閏2月24日) 後醍醐天皇が隠岐の島を脱出する
・1333年(元弘3年閏2月28日) 後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵する
・1333年(元弘3年4月29日) 足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻す
・1333年(元弘3年5月7日) 足利高氏(のちの尊氏)が六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3年5月) 新田義貞軍が鎌倉を攻撃する
・1333年(元弘3年5月18日) 鎌倉小袋坂の戦いで、数え年39歳で自刃する
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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、「府縣制」(明治23年法律第35号)が公布された日です。
 「府縣制(ふけんせい)」は、「大日本帝国憲法」の下での地方行政制度を定めた法律で、「郡制」(明治23年法律第36号)と同じ日に出されました。
 地方公共団体である府県(郡市町村を包括する団体)の権限・地位を規定したもので、当初は「直接國税十圓以上ヲ納ムル者ハ府縣會ノ被選權ヲ有ス」(第4条)とされた制限選挙で選ばれた議員によって構成される府県会と知事(官選の官吏)と府県高等官および府県会議員の中から選出された名誉職参事会員による府県参事会を自治の主体としています。
 「此法律ハ郡制市制ヲ施行シタル各府縣ニ施行スルモノトス」(第94条)とされたため、「郡制」「市制」の再編の遅れから、1891年(明治24) 7月1日に 長野県、8月1日に青森県、秋田県、山形県、福井県、徳島県、大分県、9月1日に徳島県、高知県、10月1日に石川県、山梨県の実施といった状況で遅々として進まず、1899年(明治32)3月16日に「郡制」とともに「府県制」も全部改正されてようやく北海道と沖縄県を除く全府県に施行されました。
 その後、数次の改正で選挙・被選挙権の制限枠が緩められ、議会権限拡大も図られていきます。1926年(大正15)には、衆議院議員選挙と同様に府県会議員選挙に、納税額による選挙権・被選挙権制限を撤廃(普通選挙制度)するための改正が実施され、1929年(昭和4)の改正では、府県に条例および規則の制定権が与えられました。
 しかし、太平洋戦争後の1947年(昭和22)5月3日の「日本国憲法」と「地方自治法」の施行によって「市制」、「町村制」、「東京都制」と共に廃止されています。
 以下に、「府縣制」(明治23年法律第35号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「府縣制」(明治23年法律第35号)

 第一章 總則

第一條 府縣ノ廢置分合及府縣境界ノ變更ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
 府縣境界ニ當ル郡市町村ノ境界ヲ変更スルトキハ府縣境界モ亦自ラ變更スルモノトス
 本條ノ處分ニ付財産處分ヲ要スルトキハ内務大臣之ヲ定ム但特ニ法律ノ規定アルモノハ此限ニ在ラス

 第二章 府縣會

第二條 府縣會ハ府縣内郡市ニ於テ選擧シタル議員ヲ以テ之ヲ組織ス
 郡市ニ於テ選挙スヘキ府縣會議員ノ定數ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム但各郡市ヲシテ少クトモ一人ノ議員ヲ選挙セシムヘシ

第三條 府縣會議員ノ選擧ハ市ニ在リテハ市會及市参事會同シ市長ヲ會長トシ郡ニ在リテハ郡會及郡参事會同シ會長トシ左ノ規定ニ依リ之ヲ行フヘシ但會長ハ投票ニ加ハラサルモノトス
 一 投票ハ選擧人自ラ會長ノ面前ニ於テ之ヲ投票函ニ投入ス
 二 左ノ投票ハ之ヲ無効トス
  一 記載セル人名ノ讀ミ難キモノ
  二 被選權ノ何人タルヲ確認シ難キモノ
  三 被選權ナキ人名ヲ記載スルモノ
  四 被選人氏名ノ外他ノ文字ヲ記入スルモノ但爵位職業身分住所又ハ敬稱ハ此限ニ在ラス
  本項一ヨリ三ニ至ルノ場合ニ於テ票中他ニ列記ノ被選人ニ付テハ仍其効アリトス
 三 有効投票ノ多數ヲ得タル者ヲ以テ當選トス投 票ノ數相同キモノハ年長者ヲ取リ年齢相同キトキハ會長自ラ抽籤シテ其當選ヲ定ム

第四條 府縣内市町村ノ公民中選擧權ヲ有シ其府縣ニ於テ一年以來直接國税十圓以上ヲ納ムル者ハ府縣會ノ被選權ヲ有ス
 住居ヲ移シタル爲市町村ノ公民權ヲ失ヒタル者其住居同府縣内ニ在リ且他ノ要件ヲ失ハサルトキハ仍府縣會ノ被選權ヲ有ス
 其府(東京府ハ警視廳トモ)縣ノ官吏及有給吏員神宮諸宗ノ僧侶又ハ教師ハ府縣會議員タルコトヲ得ス
 前項ノ外ノ官吏ニシテ當選シ之ニ應セントスルトキハ本屬長官ノ許可ヲ受クヘシ
 府縣會議員ハ衆議院議員ト相兼ヌルコトヲ得ス

第五條 府縣會議員ハ名譽職トス其任期ハ四年トシ毎二年其半數ヲ改選ス若其員數二分シ難キトキハ初會ニ於テ多數ノ一半ヲ解任セシム初會ニ於テ解任スヘキ者ハ府縣會議長府縣會ニ於テ自ラ抽籤シテ之ヲ定ム
 解任ノ議員ハ再選セラルヽコトヲ得

第六條 議員中闕員アルトキハ遅クトモ六箇月以内ニ補闕選擧ヲ行フへシ
 補闕議員ハ其前任者ノ残任期間在職スルモノトス

第七條 府縣會議員ノ選擧ハ府縣知事ノ告示ニ依リ之ヲ行フへシ其告示ハ遅クトモ選擧ノ日ヨリ十四日前ニ之ヲ發スへシ

第八條 選舉ヲ終リ當選人ノ定マリタルトキハ郡長市長ハ直ニ當選人ニ通知シ及府縣知事ニ報告スへシ
 當選人其當選ノ通知ヲ受ケタルトキハ五日以内ニ其當選ヲ承諾スルヤ否ヲ府縣知事ニ届出へシ
 一人ニシテ數箇所ノ選擧ニ當リタルトキハ同期限内ニ何レノ選擧ニ應スへ キコトヲ府縣知事ニ届出へシ
 前二項ノ届出ヲ其期限内ニ爲サヽルトキハ總テ選擧ヲ辭スル者ト視做スへ シ

第九條 當選人其當選ヲ辭シ又ハ承諾ノ届出ヲ爲サヽルトキハ府縣知事ハ其郡市ヲシテ十日以内ニ更ニ選擧ヲ行ハシムへシ

第十條 當選人確定シタルトキハ府縣知事ハ直ニ當選證書ヲ付與シ及管内ニ告示スへシ

第十一條 選擧人選擧ノ効力ニ關シテ訴願セントスルトキハ選擧ノ日ヨリ十四日以内ニ之ヲ府縣知事ニ申立ルコトヲ得

第十二條 當選人其當選ノ際資格ノ要件ヲ有セサリシコト發覺スルトキハ其當選ヲ無効トス
 當選人當選後資格ノ要件ヲ失フトキハ議員ノ職ヲ失フモノトス

第十三條 府縣會ニ於テ其議員中議員ノ資格ヲ有セサル者アルコトヲ發見ス ルトキハ其議決ヲ以テ之ヲ府縣知事ニ通知スへシ

第十四條 府縣會議員被選權ノ有無及選舉ノ効力ハ府縣參事會之ヲ裁決ス
 府縣参事會ノ裁決ニ不服アル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第十五條 府縣會ノ議決スへキ事件左ノ如シ
 一 府縣ノ歳入出豫算ヲ定ムル事
 二 決算報告ヲ認定スル事
 三 府縣税ノ賦課徴収方法ヲ定ムル事
 四 府縣有不動産ノ賣買交換讓渡讓受竝ニ質入書入ノ事
 五 歳入出豫算ヲ以テ定ルモノヲ除ク外新ニ義務ノ負擔ヲ爲シ及權利ノ 棄却ヲ爲ス事
 六 府縣有財産ノ管理及營造物ノ維持方法ヲ定ムル事
 其他法律命令ニ依リ府縣會ノ權限ニ屬スル事項ヲ議決ス

第十六條 府縣會ハ其權限ニ屬スル事件ヲ府縣参事會ニ委任スルコトヲ得

第十七條 府縣會ハ官廳ノ諮問アルトキハ意見ヲ陳述スへシ
 府縣會ハ其府縣ノ全部又ハ一部ノ公益ニ關スル事件ニ付府縣知事又ハ内務大臣ニ建議スルコトヲ得

第十八條 府縣會議員ハ選擧八ノ指示若ハ委嘱ヲ受クへカラサルモノトス

第十九條 府縣會ハ改選後ノ初會ニ於テ議長及副議長各一名ヲ互選スへシ其任期ハ議員ノ任期ニ従フ
 議長副議長其ニ故障アルトキハ臨時議長ヲ互選スへシ

第二十條 府縣知事若ハ特ニ知事ノ委任ヲ受ケタル府縣ノ官吏若ハ史員ハ府縣會ノ議事ニ参與スルコトヲ得但議決ニ加ルコトヲ得ス
 前項ノ列席者ニ於テ發言ヲ求ムルトキハ議長ハ何時ニテモ之ヲ許スへシ

第二十一條 府縣會ハ毎年一回秋季ニ於テ通営會ヲ開ク通常會ノ會期ハ三十日以内トス其他必要アルトキハ其事件ニ限リ七日以内ヲ會期トシテ臨時會ヲ開クコトヲ得
 府縣會ハ府縣知事之ヲ招集ス其招集ハ開會ノ日ヨリ十四日前迄ニ告示スへシ但急施ヲ要スル場合ハ比限ニ在ラス
 府縣會ハ府縣知事之ヲ開閉ス

第二十二條 府縣會ハ議員三分ノ一以上出席スルニ非サレハ會議ヲ開キ議決 ヲ爲スコトヲ得ス

第二十三條 府縣會ノ議決ハ過牛数ニ依ル可否同數ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル

第二十四條 議員ハ自己及其父母兄弟若ハ妻子ノ一身上ニ關スル事件ニ付テ ハ會議ノ承諾ヲ經ルニ非サレハ府縣會ノ議事ニ参與シ及議決ニ加ハルコト ヲ得ス

第二十五條 府縣會ニ於テ選擧ヲ行フトキハ第三條ノ規定ニ依ルへシ

第二十六條 府縣會ノ會議ハ公開ス但左ノ場合ハ比限ニ在ラス
 一 府縣知事ヨリ傍聴禁止ノ要求ヲ受ケタルトキ
 二 議長又ハ議員五名以上ノシ議ニ由リ傍聴禁止ヲ可決シタルトキ
議長又ハ議員ノ發議ハ討論ヲ用非スシテ其可否ヲ決スヘシ

第二十七條 東京府京都府大阪府府會ノ職權ニ屬スル事件ニシテ專ラ東京市京都市大阪市ニ關スルモノト専ラ其他ノ部分ニ關スルモノト分別スルコトヲ要スルモノアルトキハ府會ノ議決ニ依リ之ヲ分別スルコトヲ得
 前項ノ分別ニ依リ專ラ東京市京都市大阪市ニ關スルモノハ其郡部議員ニ於テ其事件ノ議事ニ参與シ及議決ニ加ハルヨトヲ得ス其他ノ部分ニ關スルモノハ市部議員ニ於テ其事件ノ議事ニ参與シ及議決ニ加ルヨトヲ得ス此場合ニ於テハ郡部議員市部議員ニ於テ各臨時議長ヲ互選スへシ
 比法律中東京府京都府大阪府府會ノ市部議員トアルハ東京市京都市大阪市市會ニ於テ選擧シタル議員ヲテセ郡部議員トアル東京市京都市大阪市ヲ 除牛其他ノ部分ニ於テ選擧シタル議員ヲ云フ

第二十八條 議長ハ議事ノ順序ヲ定メ會議及選擧ノ事ヲ總理シ其日ノ會議ヲ開閉シ竝ニ延會シ議場ノ秩序ヲ保持ス

第二十九條 議員ハ會議中無禮ノ語ヲ用井及他人ノ身上ニ渉リ言論スルコト ヲ得ス

第三十條 會議中此法律若ハ議事規則ニ違ヒ其他議場ノ秩序ヲ紊ル議員ア ルトキハ議長ハ之ヲ警戒シ又ハ制止シ又ハ發言ヲ取消サシム命ニ從サル トキハ議長ハ當日ノ會議ヲ終ルマテ發言ヲ禁止シ又ハ議場ノ外ニ退去セシムへシ若強抗ニ渉ル者アルトキハ警察官ニ命シテ之ヲ退去セシムルヨトヲ得
議場騒擾ニシテ整理シ難キトキハ議長當日ノ會議ヲ中止シ又ハ之ヲ閉ツルコトヲ得

第三十一條 議員中議場ノ秩序ヲ紊ルコト二回以上ニ及フ者アルトキ議長又ハ議員ノ發議ニ依リ議會ノ議決ヲ以テ七日以内其出席ヲ停止スルヨトヲ得

第三十二條 會議ノ傍聴人公然可否ヲ表シ又ハ喧騒ニ渉リ其他議事ノ妨害ヲ爲ス者アルトキハ議長ハ之ヲ制止シ若命ニ從ハサルトキハ警察官ニ命シテ之ヲ退場セシムルコトヲ得
 傍聴席騒擾ナルトキハ議長ハ總テノ傍聴人ヲ退場セシムルコトヲ得

第三十三條 府縣知事若特ニ其委任ヲ受ケタル官吏若吏員及議員ハ議場ノ秩序ヲ紊リ又ハ議場ノ妨害ヲ爲ス者アルトキハ議長ノ注意ヲ喚起スルヨ トヲ得

第三十四條 第三十條第三十二條ニ依リ議長ノ命ニ應セシムル爲府縣知事(東京府ハ警視總監)ハ毎會期警察官ニ議場掛専務ヲ命スへシ

第三十五條 府縣會ニ書記ヲ置キ議長ニ隷屬シテ庶務ヲ掌理セシム
書記ハ議長之ヲ選任ス

第三十六條 府縣會ハ書記ヲシテ議事録ヲ製シ議決及選擧ノ顚末竝ニ出席議 員ノ氏名ヲ記録セシムへシ議事録ハ議長及議員二名以上之ニ署名スへシ其議員ハ會議ノ前議會ニ於テ豫メ之ヲ定メ議事録中ニ其氏名ヲ記載シ置クヘシ

第三十七條 府縣會ハ議事規則及傍聴人取締規則ヲ設ケ内務大臣ノ認可ヲ受テ之ヲ施行スへシ

 第三章 府縣參事會吏員及委員

第三十八條 府縣ニ府縣參事會ヲ置キ府縣知事高等官二名及名譽職參事會員ヲ以テ之ヲ組織ス
 府ノ名譽職参事會員ハ八名トス郡部議員ニ於テ其議員中ヨリ四名ヲ互選シ市部議員ニ於テ其議員中ヨリ四名ヲ互選スへシ
 縣ノ名譽職参事會員ハ四名トス縣會ニ於テ其議員中ヨリ之ヲ互選スへシ

第三十九條 府縣参事會員タル高等官ハ府縣廳ニ奉職ノ高等官中ヨリ内務大臣之ヲ命ス

第四十條 府縣参事會ハ府縣知事ヲ以テ議長トス議長故障アルトキハ高等官會員之ヲ代理ス

第四十一條 府縣會ハ毎通常會ニ於テ名譽職参事會員ノ補充員府ハ八名縣ハ四名ヲ互選シ其名譽職参事會員ノ闕員アルトキハ府縣知事ニ於テ補充員中投票多數ノ順次ニ依リ之ヲ補充スへシ但其既ニ補充シタル者ハ前任者ノ任期中在職スルモノトス

第四十二條 名譽職参事會員ノ任期ハ議員ノ任期ニ從フ但任期滿限ノ後ト雖後任者就職ノ日マテ在職スルモノトス  名譽職會員ハ補充員ヲ以テ其闕員ヲ補充シ仍闕員弓生シタル場合ニ於テハ二箇月以内ニ臨時其選擧ヲ行フヘシ

第四十三條 府縣參事會ノ職務權限左ノ如シ
 一 府縣會ノ權限ニ關スル事件ニシテ其委任ヲ受ケタルモノヲ議決スル事
 二 府縣會ノ權限ニ屬スル事件ニシテ臨時急施弓要シ府縣知事ニ於テ府縣會ヲ招集スルノ暇ナシト認ムルトキ府縣會ニ代テ議決ヲ爲ス事
 三 府縣會ノ定メタル方法ノ範圍内ニ於テ府縣有財産ノ管理又ハ營造物ノ維持ニ關シ必要ナル事件ニ付議決ヲ爲ス事
 四 府縣ノ費用ヲ以テ支辨スル工事ノ次第順序其他必要ナル事件ニ付議決ヲ爲ス事
 五 府縣知事及其他官廳ノ諮問ニ對シ意見ヲ述フル事
 六 府縣知事ヨリ發スル府縣會議案ニ付府縣知事ニ意見ヲ述ヘ及會議ニ報 告スル事
 七 臨時必要アルトキ府縣ノ出納ヲ檢査スル事
 其他法律命命ニ依リ府縣參事會ノ權限ニ屬スル事務ヲ處理ス

第四十四條 府縣参事會ハ府縣知事之ヲ招集ス
 會員半數以上ノ請求アルトキハ府縣知事ハ府縣参事會ヲ招集スへシ

第四十五條 府縣参事會ノ會議ハ傍聴ヲ許サス

第四十六條 府縣參事會ハ議長又式其代理者及名譽職會員半數以上出席スルニ非サレハ。會議ヲ開キ議決ヲ爲スルコトヲ得ス但第四十三條第三ノ議決ヲ爲ストキハ高等官會員ハ其議決ニ加ハラサルモノトス
 府縣参事會ノ議決ハ過半數ニ依ル可否同數ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル
 議決ノ事件ハ之ヲ議事録ニ登記シ議長及名譽職參事會員二名以上之ニ署名スへシ

第四十七條 府縣參事會員自己及其父母兄弟若妻子ノ一身上ニ關スル事件ニ付府縣参事會ノ議事ニ参典シ及議決ニ加ハルコトヲ得ス
 前項規定ノ爲出席ノ参事會員減少シテ前條第一項ノ數ヲ得サルトキハ府縣知事ハ補充員ヲ以テ臨時之ニ充テ仍其數ヲ得サルトキハ府縣會議員ニシテ該事件ニ關係ナキ者ノ内ヨリ臨時ニ指名シ名譽職參事會員ノ不足ヲ補充シテ第三十八條ノ定數ニ滿タシムへシ

第四十八條 市制町村制ノ規定ニ依リ府縣參事會ノ權限ニ屬スル事件ニシテ二府縣以上ノ郡市町村ニ交渉スルモノアルトキハ其府縣知事ノ具状ニ依リ内務大臣ニ於テ其事件ヲ管轄スへキ府縣参事會ヲ指定スへシ

第四十九條 東京府京都府大阪府参事會ノ職權ニ屬スル事件ニシテ専ラ東京市京都市大阪市ニ關スルモノハ其郡部名譽職参事會員ニ於テ其事件ノ議事ニ参與シ及議決ニ加ハルコトヲ得ス其東京市京都市大阪市外ノ市町村若ハ郡ニ關スルモノハ市部名譽職参事會員ニ於テ其事件ノ議事ニ参與シ及議決ニ加ハルコトヲ得ス
此法律中東京府京都府大阪府府會ノ市部名譽職参事會員トアルハ市部議員ニ於テ選擧シタル名譽職参事會員ヲ云ヒ郡部名譽職参事會員トアル郡部議員ニ於テ選擧シタル名譽職参事會員ヲ云フ

第五十條 府縣知事ハ府縣會及府縣参事會ノ議決ヲ施行シ及府縣有財産及營造物ヲ管理シ竝ニ府縣ノ費用ヲ以テ支辨スル工事ヲ執行ス
 府縣ニ於テ他人ニ對シ義務ヲ負擔スへキ證書及委任状ニハ知事ノ外名譽職参事會員二名以上之ニ署名捺印スへシ
 前項ノ文書中府縣會又ハ参事會ノ職權ニ屬スル事件ニシテ其議決ヲ經タルモノハ總テ其旨ヲ記入スへシ

第五十一條 府縣會ニ於テ名譽職参事會員ヲ選擧セス又ハ参事會成立セス又ハ招集ニ應セサルトキハ参事會成立シ又ハ招集ニ應スル迄府縣知事ハ府縣参事會ノ權限ニ屬スル事件ヲ専決處分スルコトヲ得
 非常事變ニ際シ府縣参事會ヲ招集スルノ暇ナク又ハ名譽職参事會員ノ出席半數以上ニ至ラサルトキハ府縣知事ハ府縣参事會ノ權限ニ屬スル事件ヲ専決處分スルコトヲ得

 本條ノ處分ハ次回ノ府縣會會議ニ於テ之ヲ報告スへシ

第五十二條 府縣知事ハ府縣會ノ議決ニ依リ府縣ノ費用ヲ以テ府縣有財産又營造物ノ管理若ハ土木工事ニ必要ナル有給ノ府縣吏員ヲ置クコトヲ得但府縣吏員ハ府縣知事ニ於テ之ヲ任免監督ス
 府縣吏員ノ給料手當退隠料等ハ府縣會ノ議決スル所ニ依ル其身元保證金ヲ 要スルトキ其金額ヲ定ムルモ赤同シ

第五十三條 府縣知事ハ府縣會ノ議決ヲ經テ臨時又ハ常設ノ委員ヲ置キ府縣事務ノ一部ヲ調査セシメ又府縣有財産及營造物ノ一部ヲ管理セシムルコトヲ得其選舉又選任ノ方法及任期ハ府縣會ノ議決スル所ニ依ル
委員ハ名譽職トス

 第四章 府縣ノ會計

第五十四條 府縣有財産及營造物管理ノ費用府縣會府縣參事會及委員ノ費用府縣吏員ノ給料退隱料其他諸給與及從來法律命令若ハ式慣例ニ依リ竝ニ將來法律勅令ニ依リ府縣ノ負擔ト定ムル事件ノ費用ハ府縣ニ於テ之ヲ支辨スヘシ

第五十五條 名譽職参事會員及委員ニハ旅費滞在手當及出務日當ヲ給スルコトヲ得府縣會議員ニハ旅費及滞在手當ニ限リ之ヲ給スルコトヲ得但滞在手當出務日當ヲ併セ一日一圓五十銭ヲ超ニルコトヲ得ス

第五十六條 府縣ノ支出ハ府縣税其他府縣ノ収入ヲ以テ之ニ充ツ

第五十七條 府縣税目及其賦課徴収方法ニ關スル規定ハ此法律ニ依リ變更シ タルモノヲ除クノ外從前地方税ニ關スル規定ニ依ル

第五十八條 府縣知事ハ府縣會ノ議決ニ依リ内務大臣及大蔵大臣ノ許可ヲ受ケ其府縣ノ全部若ハ市制施行ノ地ニ家屋税ヲ賦課スルコトヲ得但家屋税 賦課ノ地ニ於テハ戸數割ヲ賊課スルコトヲ得ス

第五十九條 府縣内ニ土地家屋ヲ所有シ又ハ店舗ヲ定メテ營業ヲ爲ス者ハ其土地家屋營業ニ對シテ賦課スル府縣税ヲ納ムルモノトス其法人タルトキモ亦同シ但郵便電信及官設鐵道ノ業ハ比限ニ在ラス
府縣内ニ一戸ヲ構へ三箇月以上ニ及フ者ハ其戸數ニ對シテ府縣税ヲ納ムルモノトス但其課税ハ一戸ヲ構へタル初ニ遡リ徴収スへシ

第六十條 府縣税ノ賦課ニ付テハ納税者カ其府縣外ニ於テ店舗ヲ定メタル營業ノ収入ヲ其標準ニ算入スルコトヲ得ス

第六十一條 府縣會ハ各市町村内ニ於テ徴収スル府縣税賦課ノ細目ニ係ル事項ヲ關係市町村會ノ議決ニ付スルコトヲ得

前項市町村會ノ議決法律命令又府縣會ノ議決ニ抵觸スルコトヲ得ス

市町村會ニ於テ府縣會ノ指定シタル期限内ニ其議決ヲ爲サヽルトキ府縣参事會之ヲ議決スへシ

第六十二條 營業ノ状況又ハ収入ヲ標準トシテ賦課スル府縣税ニ付テハ府縣知事ハ府縣會ノ議決ヲ經テ賦課額調査ノ爲其府縣内郡市ニ調査委員ヲ置クコトヲ得

第六十三條 府縣税ノ免除ハ市町村税免除ノ規定ニ依ル

第六十四條 府縣會ハ府縣内郡市町村ノ土木工事又ハ府縣内ノ教育衛生勸業及慈善ノ事業若ハ營造物ニ對シ補助金ヲ與フルコトヲ議決スルコトヲ得

第六十五條 府縣會ハ家屋税又ハ戸數割ノ全部又ハ一部ノ代納トシテ府縣ノ費用ヲ以テ支辨スル事業ニ對シ夫役又ハ現品ヲ出スヲ許スコトヲ議決スル コトヲ得

第六十六條 府縣税ハ納税義務ノ起リタル翌月ノ初ヨリ免税理由ノ生シタル月ノ終迄月割ヲ以テ之ヲ徴収スへシ但日割ヲ以テ徴収スルモノハ比限ニ在 ラス
納税義務消滅シ又ハ變更スルトキハ納税者ヨリ之ヲ當該官廳ニ届出へシ其届出ヲ爲シタル月ノ終迄ハ從前ノ税ヲ徴収スへシ
物件ヲ目的トシ納期ヲ定メテ一定ノ額ヲ賦課スル府縣税ハ其納期ニ於テ納税義務ヲ負フ者其額ヲ納ムへシ
府縣税ノ前納ニ係ルモノハ其義務ノ消滅シ又ハ他人ニ移轉シタル場合ト雖之ヲ還付セス但其義務ノ移轉ヲ受ケタル者ハ其前納期限ノ終迄納税セサルモノトス

第六十七條 府縣税ハ法律命令ヲ以テ別段ノ規定ヲ設クルモノヲ除クノ外各市町村長ニ於テ市町村税徴収ノ手續ニ依リ之ヲ徴収スへシ

第六十八條 府縣税ノ賦課ニ對シ錯誤アルコトヲ發見シタル者ハ徴税傳令書ノ交付後三箇月以内ニ之ヲ其傳令書ヲ發シタル廳ニ申立ルコトヲ得但申立 ノ爲其納税ヲ拒ムコトヲ得ス

第六十九條 前條ノ申立ヲ爲シタル後二十一日以内ニ其更正ヲ得サルトキ又 ハ其更正ヲ得ルモ之ニ不服ナルトキハ十四日以内ニ郡参事會ニ訴願シ郡参事會ノ裁決ニ不服ナルトキハ其裁決書ヲ交付シ又ハ之ヲ告知シタル日ヨリ十四日以内ニ府縣参事會ニ訴願シ府縣参事會ノ裁決ニ不服ナルトキハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得但市ニ在テハ府縣参事會ニ訴願シ府縣参事會ノ裁決ニ不服ナルトキハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得第七十條 府縣税ノ免税若ハ納税延期特別ノ事情アルモノニ限リ府縣知事ニ於テ府縣参事會ノ議決ヲ經テ之ヲ許スコトヲ得
府縣税ノ滯納處分ハ國税滯納處分法ニ依ル

第七十一條 東京府京都府大阪府ニ在テハ府ノ支出ニ充ツヘキ郡部ニ分賦ス其分賦ノ割合ハ府會ニ於テ之ヲ議決シ内務大臣ノ認可ラ受テ施行スへシ
前項市部ノ分賦額市ニ於テ之ヲ市ノ豫算ニ編入シ市税トシテ徴収シ其總額ヲ府金庫ニ納ムへシ郡部ノ分賦額ハ此法律ノ規定ニ依リ之ヲ徴収ス但市部議員ハ其徴収ニ關スル議事ニ参與シ及議決ニ加ラサルモノトス此場合ニ於テ若議長副議長市部議員ナルトキハ郡部議員ニ於テ臨時議長ヲ互選スへシ

第七十二條 市制施行ノ府縣ニ在テハ郡廳舎建築修籍費郡吏員給料旅費及廳費ハ市ヲ除キ其他ノ部分ノミヲシテ其負擔ニ任セシムへシ
前項ノ府縣ニ在テハ其府縣ノ支出費目中市ト其他ノ部分ト利害ノ厚薄ヲ異ニシ均一ノ負擔ニ任セシムルコトヲ得サルモノアルトキハ其費目ニ限リ其一方ノ負擔ヲ増加スルコトヲ得但負擔ノ割合ハ府縣會ニ於テ之ヲ議決シ内務大臣ノ許可ヲ受クへシ若之ヲ許可スへカラスト認ムルトキハ内務大臣之ヲ確定ス
第一項ノ負擔ニ任セシメ及第二項ニ依リ一方ノ負擔ヲ増加スルハ賦課ノ税率ヲ増加スルニ止メ其會計ヲ異ニスルコトヲ得ス但東京府京都府大阪府ニ在テハ前條ニ依ル
前項ニ依リ税率ヲ增加スヘキ税目ハ府縣會ノ議決スル所ニ依ル

第七十三條 府縣内ノ或ル部分ニ對シ特ニ利益アル土木事業ヲ起ストキハ府縣會ノ議決ニ依リ該部分ニ對多通常府縣税賦課ノ外其利益ノ厚薄ニ應シ特ニ夫役現品ヲ増課スルコトヲ得

第七十四條 府縣ハ其舊債元額ヲ償還スル為又ハ天災事變ノ爲巳ムヲ得サル支出又府縣ノ永久ノ利益ト爲ルへキ支出ヲ要スルニ方リ通常ノ歳入ヲ増 加スルトキハ府縣ノ負擔ニ堪へサルノ場合ニ限リ勅令ノ定ムル所ニ依リ府縣會ノ議決ヲ以テ府縣債ヲ起スコトヲ得
府縣債ヲ起スノ議決ヲ爲ストキハ併セテ起債ノ方法利息ノ定率及償還ノ方法ヲ定ムヘシ
府縣債償還ノ初期ハ三年以内ト爲シ年々ノ償還歩合ヲ定メ起債ノ時ヨリ三十年以内ニ還了スへシ
歳入出換算内ノ支出ヲ爲スカ爲必要チル一時ノ借入金ニシテ其年度内ノ収入ヲ以テ償還スへキモノハ本條ノ例ニ依ルノ限ニ在ラス但府縣参事會ノ議決ヲ經ルコトヲ要ス

第七十五條 府縣知事ハ毎年其翌年度ニ係ル歳入出豫算ヲ調製スへシ但府縣ノ會計年度ハ政府ノ會計年度ニ同シ
豫算ハ府縣會ノ議決ニ付スルノ前府縣参事會ノ審査ニ付スへシ若府縣知事 ト府縣参事會ト意見ヲ異ニスルトキハ知事ハ参事會ノ意見ヲ豫算ニ添へ府縣會ニ提出スへシ追加又ハ臨時ノ豫算ニ付テモ亦同シ
内務大臣ハ省令ヲ以テ豫算調製ノ式ヲ定メ竝ニ費目流用ニ關スル規定ヲ設クルコトヲ得

第七十六條 豫算ハ毎年府縣會ノ議決ヲ取リ之ヲ内務大臣ニ報告シ竝ニ府縣ノ公告式ニ依リ其要領ヲ告示スへシ追加又ハ臨時ノ豫算ヲ議決シタル場合ニ於テモ亦同シ
府縣ノ費用ヲ以テ支辨スル事業ニシテ數年ヲ期シ施行スへキモノ又ハ數年ヲ期シテ其費用ヲ支出スへキモノハ府縣會ノ議決ヲ以テ其年期間各年度ノ支出額ヲ定メ繼續費ト爲スコトヲ得
豫算ヲ府縣會ニ提出スルトキハ府縣知事ハ併セテ其府縣有財産表ヲ提出スへシ

第七十七條 歳入出豫算中ニ豫備費ヲ設クへシ像備費ハ府縣知事ニ於テ府縣参事會ノ議決ヲ經テ巳ムヲ得サル豫算外ノ支出又ハ豫算超過ノ支出ニ充ツルコトヲ得但府縣會ノ否決シタル費途ニ充ツルコトヲ得ス

第七十八條 府縣ノ収支命令ハ府縣知事之ヲ發スへシ

第七十九條 會計事務ヲ管理スル官吏ハ前條ノ命令アルニ非サレハ支拂ヲ爲スコトヲ得ス及其命令アルモ支出ノ豫算ナキカ又ハ豫備費支出及費目流用ノ規定ニ依ラサルトキハ支拂ヲ爲スコトヲ得ス

第八十條 決算ハ會計事務ヲ管理スル官吏ニ於テ會計年度後三筒月以内ニ之ヲ府縣知事ニ提出シ府縣知事ハ府縣参事會ヲシテ之ヲ檢査セシメ次回ノ通常府縣會ノ認定三ニ付スヘシ
決算報告書竝ニ之ニ關スル府縣會ノ議決ハ府縣知事ヨリ之ヲ内務大臣ニ報告シ竝ニ決算ハ府縣ノ公告式ニ依リ其要領ヲ告示スヘシ

 第五章監督

第八十一條 府縣ノ行政ハ内務大臣之ヲ監督ス

第八十二條 府縣ノ行政ニ關スル訴願ハ其事件ノ處分若ハ裁決ヲ受ケタル日ヨリ二十一日以内ニ其理由ヲ具シテ内務大臣ニ提出スへシ
此法律ニ指定スル場合ニ於テ府縣知事ノ處分又ハ府縣参事會ノ裁決ニ不服アリテ行政裁判所ニ出訴セントスル者ハ裁決ヲ受ケタル日ヨリ二十一日以 内ニ出訴スへシ
行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得へキ場合ニ於テハ内務大臣ニ訴願スルコト ヲ得ス

第八十三條 内務大臣ハ府縣行政ノ法律命令ニ背戻セサルヤ其事務錯亂澁滯セサルヤ否ヲ監視スへシ内務大臣ハ之カ爲行政事務ニ關シテ報告ヲ爲サシメ豫算及決算等ノ書類帳簿ヲ徴シ竝ニ實地ニ就テ事務ノ現況ヲ視察シ出納ヲ検閲スルノ權ヲ有ス

第八十四條 府縣會又ハ府縣參事會ノ議決公益ヲ害スト認ムルトキハ府縣知事理由ヲ示シテ議決ノ執行ヲ停止シ之ヲ再議セシメ猶其議決ヲ改メサル トキ直ニ内務大臣ニ具状シテ指揮ヲ請フへシ
府縣會又ハ府縣参事會ノ議決其權限ヲ超エ又ハ法律命令ニ背クト認ムルトキハ府縣知事ハ其議決ヲ取消スへシ此場合ニ於テ府縣知事ノ處分ニ不服アルトキハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第八十五條 府縣會又ハ府縣參事會ニ於テ法律命合又ハ慣行ニ依テ府縣ノ負擔ニ關スル行政上又ハ公益上必要ノ費用ヲ否決シ又ハ議決スト雖必要ノ給需ヲ缺クトキハ府縣知事ハ内務大臣ニ具状シ其指揮ヲ請ヒ原案ヲ執行スルコトヲ得但内務大臣ハ原案金額ヲ不相當ト認ムルトキハ原案金額以内ニ於テ適當ノ金額ヲ定メ指揮スルコトヲ得

第八十六條 府縣會招集ニ應セス又ハ成立セサルトキハ府縣知事ハ内務大臣ノ指揮ヲ請ヒ處分スルコトヲ得

前項ノ處分ハ次回ノ會議ニ於テ之ヲ報告スへシ

第八十七條 府縣會又府縣參事會ニ於テ其議決スヘキ議案ヲ議決セス又ハ府縣會ニ於テ招集前正當ノ手續ヲ以テ告知セラレタル議案ヲ第二十一條第一項ニ定メタル期限内ニ議了セサル場合ニ於テ其事緊急ヲ要スルトキハ府縣知事ハ内務大臣ニ具状シ其指揮ヲ請ヒ原案ヲ執行スルコトヲ得但其議決セス又ハ議了セサル議案歳入出豫算ニ係リ内務大臣ニ於テ原案金額ヲ不相當ト認ムルトキハ原案金額以内ニ於テ適當ノ金額ヲ定メ指揮スルコトヲ得

第八十八條 内務大臣ハ府縣ノ歳入出豫算中不適當ノ支出ト認ムル費目アル トキハ之ヲ削除シ及其府縣ノ資力ニ比シ不急ノ支出ト認ムル費目アルトキハ之ヲ削除若ハ滅殺スルコトヲ得此場合ニ於テハ収入科目中ニ就キ之ニ相當スル収入額ヲ滅殺スへシ

第八十九條 府縣會ノ解散ハ勅令ヲ以テス比場合ニ於テ三箇月以内ニ議員ヲ改選スヘシ
前項解散ノ場合ニ於テハ名譽職参事會員モ亦解職スルモノトス
府縣會解散ノ後改選結了ニ至ル迄ノ間急施ヲ要スル事件アルトキハ府縣知事ハ專決處分スルコトヲ得
前項ノ處分ハ次回ノ會議ニ於テ之報告スヘシ

第九十條 左ノ事件ニ關スル府縣會ノ議決ハ内務大臣及大蔵大臣ノ認可ヲ受クルコトヲ要ス
 一 新ニ府縣債ヲ起シ又ハ其額ヲ増加シ若ハ償還ノ方法ヲ變更スル事
 二 地租四分ノ一ヲ超過スル府縣税ヲ土地ニ賦課スル事
 三 法律勅令ノ規定ニ依リ官廳ヨリ下渡ス歩合金ニ對シ支出金額ヲ定ムル事

第九十一條 左ノ事件ニ關スル府縣會ノ議決ハ内務大臣ノ認可ヲ受クルコトヲ要ス
 一 府縣有不動産ノ賣却讓渡竝ニ質入書入ノ事
 二 第七十二條第二項ニ依リ市若ハ其他ノ部分ノ負擔ヲ増加スル事
 三 第七十三條ニ依リ府縣内ノ或ル部分ニ對シ特ニ夫役現品ヲ増課スル事
 四 第七十六條第二項ニ依リ繼續費ヲ定メ及其年期内ニ議決ヲ變更スル事第六章附則

第九十二條 行政裁判所ヲ開設スル迄ノ間此法律ニ依リ行政裁判所ニ屬スル職務ハ現行ノ行政裁判手續ニ從ヒ控訴院ニ於テ之ヲ行フヘシ

第九十三條 市制町村制施行及此法律施行ノ爲定ムル直接税ノ種類ハ此法律ノ施行ニ付テモ亦之ヲ適用ス
市制町村制郡制及此法律施行ノ爲将來ノ諸税ニ付直接税ト爲スヘキモノハ内務大臣及大藏大臣之ヲ告示スへシ

第九十四條 此法律ハ郡制市制ヲ施行シタル各府縣ニ施行スルモノトス其施行ノ時期ハ府縣知事ノ具申ニ依リ内務大臣之ヲ定ル

第九十五條 此法律施行ノ後ハ市制第百三十二條第三ニ定ムル附加税徴収ノ許可ハ東京市京都市大阪市ニ在テ地租七分ノ三、二五(二十八分ノ十三)其他ノ市ニ在テハ其七分ノ一、五(十四分ノ三)ヲ超過スルトキ之ヲ要スルモノトス

第九十六條 府縣内ニ在ル島嶼ノ其本地ニ對スル關係ニ付テハ勅令ヲ以テ特例ヲ設ク
郡制ヲ施行セサル島嶼ヨリ選出スへキ府縣會議員ノ選擧ニ關シテハ別ニ勅令ヲ以テ其制ヲ定ム

第九十七條 明治十三年四月第十五號布告府縣會規則明治十四年二月第八號布告區郡部會規則明治二十二年二月法律第六號府縣會議員選舉規則其他此法律ニ抵觸スル成規ハ此法律施行ノ府縣ニ於テ其施行ノ時期ヨリ總テ之ヲ廢止ス

第九十八條 内務大臣ハ此法律施行ノ責ニ任シ之カ爲必要ナル命令ヲ發布スヘシ

 「Wikisource」より
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