ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年05月

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 今日は、昭和時代前期の1943年(昭和18)に、御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定した日です。
 「大東亜政略指導大綱(だいとうあせいりゃくしどうたいこう)」は、太平洋戦争中に東条英機内閣のもとで、東南アジア各地の占領地域をどう取り扱うか、昭和天皇の前で決定したものです。
 石油・金属資源の宝庫であるマレーシア、インドネシア主部は日本の領土に編入するとし、また、これによって同年8月1日にビルマ国、10月14日にフィリピン共和国を名目的に独立(傀儡政権)させました。
 さらに、10月30日に傀儡の汪兆銘の中華民国政府とのあいだに「日華同盟条約」を締結した後、各傀儡国家の首脳を集め、同年11月5~6日に東京で「大東亜会議」を開催しています。そして、「牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス」としました。
 以下に、「大東亜政略指導大綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大東亜会議」とは?

 1943年(昭和18)11月5~6日に、東京の国会議事堂で開かれた日本占領下アジア各国代表の会議です。出席者は日本 (東条英機首相) 、中国 (汪精衛行政院長) 、満州国 (張景恵国務総理) 、タイ (ワン・ワイタヤコン首相代理) 、フィリピン (ラウレル大統領) 、ビルマ (バ・モー首相) で、自由インド仮政府の C.ボース主席も陪席しました。各国代表の演説の後、太平洋戦争の完遂、大東亜各国の共存共栄秩序の建設、自主独立の尊重、互恵提携をはかり、「大東亜を米英の桎梏 から解放」の五原則を内容とした「大東亜共同宣言」を採択しました。しかし、タイが正式代表を送らず、各国の対日批判の姿勢も強く、「独立尊重」はスローガンの域を出ないで、具体的政策協定もまとまらないままに終わり、内実を伴わない会議だったとされています。 

〇「大東亜政略指導大綱」昭和18年5月29日大本営政府連絡会議決定 昭和18年5月31日御前会議決定

第一 方針

一 帝国ハ大東亜戦争完遂ノ為帝国ヲ中核トスル大東亜ノ諸国家諸民族結集ノ政略態勢ヲ更ニ整備強化シ以テ戦争指導ノ主導性ヲ堅持シ世界情勢ノ変轉ニ対処ス 政略態勢ノ整備強化ハ遅クモ本年十一月頃迄ニ達成スルヲ目途トス  

二 政略態勢ノ整備ハ帝国ニ対スル諸国家諸民族ノ戦争協力強化ヲ主眼トシ特ニ支那問題ノ解決ス  

第二 要領  

一 対満華方策
 帝國ヲ中心トスル日満華相互間ノ結合ヲ更ニ強化ス
 (イ)対満方策
   既定ノ方針ニ據ル
 (ロ)対華方策
  「大東亜戦争完遂ノ爲ノ対支処理根本方針」ノ徹底具現ヲ圖ル爲右ニ即應スル如ク別ニ定ムル所ニ據リ日華基本條約ヲ改訂シ日華同盟條約ヲ締結ス之ガ爲速ニ諸準備シ整フ

二 対泰方策
 既定方針ニ基キ相互協力ヲ強化ス特ニ「マライ」ニ於ケル失地回復、経済協力強化速ニ実行ス
 「シャン」地方ノ一部ハ泰国領ニ編入スルモノトシ之ガ実施ニ関シテハ「ビルマ」トノ関係ヲ考慮シテ決定ス

三 対佛印方策
 既定方針ヲ強化ス  

四 対緬方策
 昭和十八年三月十日大本営政府連絡会議決定緬甸独立指導要綱ニ基キ施策ス  

五 対比方策
 成ルヘク速ニ独立セシム  独立ノ時期ハ概ネ本年十月頃ト予定シ極力諸準備ヲ促進ス  

六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
 (イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム
 (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ應シ努メテ政治ニ参與セシム
 (ハ)ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ處理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム
 (ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継續ス  

七 大東亜会議  
 以上各方策ノ具現ニ伴ヒ本年十月下旬頃(比島独立後)大東亜各国ノ指導者ヲ東京ニ参集セシメ牢固タル戦争完遂ノ決意ト大東亜共栄圏ノ確立トヲ中外ニ宣明ス

  「Wikisource」より
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 今日は、平成時代の 2006年(平成18)に、映画監督・脚本家今村昌平の亡くなった日です。
 今村昌平(いまむら しょうへい)は、大正時代の1926年(大正15)9月15日に、東京府東京市大塚(現在の東京都文京区)で耳鼻咽喉科の開業医の父・今村半次郎の三男一女の三男として生まれました。東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、太平洋戦争後に早稲田大学第一文学部西洋史学科に入学します。
 在学中は、演劇部に所属し演劇活動を行っていましたが、1951年(昭和26)に卒業後は、松竹大船撮影所に入社しました。助監督として小津安二郎、野村芳太郎についた後、師匠の川島雄三に伴い、1954年(昭和29)に日活に移籍します。
 1958年(昭和33)に「盗まれた欲情」で監督デビュー、「にあんちゃん」(1959年)で文部大臣賞を受賞して認められ、「豚と軍艦」(1961年)、「にっぽん昆虫記」(1963年)などの生と性をテーマにした、リアリズム路線の話題作で名声を確立しました。1965年(昭和40)に今村プロを設立、「神々の深き欲望」(1968年)などを撮ります。
 その後、「楢山節考(ならやまぶしこう)」(1983年)でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞、後に「うなぎ」(1997)でも2度目の同賞を受賞しました。一方で、1975年(昭和50)に、横浜放送映画専門学院を開校し、1985年(昭和60)にこれを3年制の専門学校とし、名称を日本映画学校(現在の日本映画大学)に改め、翌年、理事長・学校長に就任しています。
 その中で、映画監督の三池崇史、細野辰興、金秀吉などを輩出しましたが、2006年(平成18)5月30日に、東京において79歳で亡くなりました。

〇映画監督作品一覧

・「盗まれた欲情」(1958年)
・「西銀座駅前」(1958年)
・「果しなき欲望」(1958年)
・「にあんちゃん」(1959年)文部大臣賞受賞
・「豚と軍艦」(1961年)
・「にっぽん昆虫記」(1963年)
・「赤い殺意」(1964年)
・「人間蒸発」(1967年)
・「「エロ事師たち」より 人類学入門」(1966年)
・「神々の深き欲望」(1968年)毎日映画コンクール日本映画大賞受賞
・「にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活」(1970年)
・「復讐するは我にあり」(1979年)第3回日本アカデミー賞受賞
・「ええじゃないか」(1981年)
・「楢山節考」(1983年)カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
・「女衒 ZEGEN」(1987年)
・「黒い雨」(1989年)
・「うなぎ」(1997年)カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞
・「カンゾー先生」(1998年)
・「赤い橋の下のぬるい水」(2001年)
・「11'09''01 セプテンバー11(イレブン)」(2002年)
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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、小説家・随筆家・俳人内田百閒の生まれた日です。
 内田百閒(うちだ ひゃっけん)は、岡山県岡山市古京町(現在の中区)で裕福な造り酒屋「志保屋」を営む、父・内田久吉の一人息子として生まれましたが、本名は榮造と言いました。岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)入学したものの、1905年(明治38)に父が亡くなり、実家が倒産、経済的に困窮します。
 それでも、第六高等学校(現在の岡山大学の前身)へ進学し、在学中に志田素琴(そきん)に俳句を学び、『校友会会誌』に百間の号で発表しました。1910年(明治43)に東京帝国大学独文科に入学、翌年療養中の夏目漱石を見舞い、門下生となり、森田草平、鈴木三重吉らとの交友が始まります。
 在学中に結婚し子供も出来、夏目漱石著作本の校正に従事しながら、1914年(大正3年)に卒業、陸軍士官学校ドイツ語学教授となりました。翌々年から、海軍機関学校教官を兼務しましたが、1920年(大正9)に法政大学教授となります。
 一方、1921年(大正10)に短編小説『冥途』等を「新小説」に発表、その幻想的手法が、高く評価され、1933年(昭和8)に刊行した随筆集『百鬼園随筆』は、重版数十を重ねベストセラーとなりました。1934年(昭和9)のいわゆる「法政騒動」を機に教授を辞め、文筆業に専念しますが、太平洋戦争下の1942年(昭和17)には「日本文学報国会」への入会を拒否し、気概を示します。
 空襲で自宅を焼かれ、戦後は1950年(昭和25)に大阪への一泊二日旅行をもとに小説『特別阿房列車』執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化して、百閒の戦後代表作となりました。1967年(昭和42)に芸術院会員に推されたものの、辞退して話題となりましたが、1971年(昭和46)4月20日、東京の自宅において、81歳で亡くなっています。

〇內田百閒の主要な著作

・短編集『冥途(めいど)』(1922年)
・随筆集『百鬼園隨筆』(1933年)
・随筆集『続百鬼園随筆』(1934年)
・短編集『旅順入城式』(1934年)
・お伽噺集『王様の背中』(1934年)
・句集『百鬼園俳句帖』(1934年)
・句集『百鬼園俳句』(1943年)
・『新方丈記』(1947年)
・『贋作吾輩は猫である』(1950年)
・『実説艸平記』(1951年)
・旅行記『阿房(あほう)列車』(1952年)
・日記『東京焼尽』(1955年)
・随筆集『ノラや』(1957年)
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 今日は、平安時代後期の1119年(元永2)に、第75代天皇とされる崇徳天皇の生まれた日ですが、新暦では7月7日となります。
 崇徳天皇(すとくてんのう)は、京都において、鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれましたが、諱を顕仁(あきひと)と言いました。1123年(保安4)に皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により 数え年5歳で第75代天皇に即位します。
 1129年(大治4年)に関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚、同年7月7日に白河法皇が亡くなると鳥羽上皇による院政が開始されました。1140年(保延6)に源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立し、翌年12月7日に鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)します。
 それからは、鳥羽法皇を本院、崇徳上皇を新院と称するようになりますが、政令は本院から出されました。和歌に秀でて風雅を愛し、1144年(天養元年)には、「詞花和歌集」の編纂を下命、7年後に完成して奏覧されます。
 1155年(久寿2)に病弱だった近衛天皇が亡くなると、上皇はその子重仁親王を推しましたが、美福門院が鳥羽法皇とはかって上皇の弟の後白河天皇を立て、対立しました。1156年(保元元)に鳥羽法皇が亡くなると、藤原頼長と組み、保元の乱を起こしますが、敗れて讚岐国(現在の香川県)に配流されます。
 その後京都に返されることなく、1164年(長寛2年8月26日)に配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなりました。

<崇徳天皇の代表的な歌>
・「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(小倉百人一首)
・「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(風雅和歌集)

〇崇徳天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1119年(元永2年5月28日) 鳥羽天皇の第1皇子(母は中宮・藤原璋子)として生まれる
・1119年(元永2年6月19日) 親王宣下を受ける
・1123年(保安4年1月28日) 皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により践祚する
・1123年(保安4年2月19日) 数え年5歳で第75代天皇に即位する
・1129年(大治4年) 関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)と結婚する
・1129年(大治4年7月7日) 白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する
・1130年(大治5年) 聖子は中宮に冊立される
・1140年(保延6年) 源雅定左大将着任をめぐって鳥羽上皇と対立する
・1140年(保延6年9月2日) 女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産む
・1141年(永治元年12月7日) 鳥羽上皇の圧力で譲位させられ、得子所生の体仁親王を即位(近衛天皇)させる
・1144年(天養元年) 「詞花和歌集」の編纂を下命する
・1151年(仁平元) 「詞花和歌集」が完成奏覧される
・1155年(久寿2年7月23日) 病弱だった近衛天皇が17歳で亡くなる
・1155年(久寿2年) 後白河天皇が即位する 
・1156年(保元元年7月2日) 鳥羽法皇が亡くなる
・1156年(保元元年7月11日) 藤原頼長と組み、保元の乱を起こすが敗れる
・1156年(保元元年7月23日) 讚岐国(現在の香川県)に配流される
・1160年(平治元年12月9日) 平治の乱が起こる
・1164年(長寛2年8月26日) 配流先の讃岐において、数え年46歳で亡くなる

☆保元の乱とは?

 平安時代後期の1156年(保元元)に、京都で起こった内乱です。鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死したのです。この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
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 今日は、奈良時代の743年(天平15)に、「墾田永年私財法」が出された日ですが、新暦では6月23日となります。
 「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」は、聖武天皇の治世に「三世一身法」を改めて一定の条件つきで墾田の永世私有を認めた古代の土地法で、墾田永代私有法、墾田永世私有法、墾田永世私財法とも呼ばれてきました。令制の班田収授法は、人口の増加により田地の不足をきたし、これを補うため、723年(養老7)に「三世一身法」が出され、期限付きで開墾者の田主権を認めましたが、収公の期限が近づくと耕作の意欲が衰え、そのために墾田の荒地化が目立ってきます,そこで、位階による制限面積を超えないこと、国司の許可を得ること、許可後3年以内に開墾し終わることなどの条件のもとで、墾田の永世私有を許したもので、これによって公地公民の大原則が崩れ、社寺・貴族による大土地所有が活発化し、荘園制成立の要因となります。以下に、これを記した『続日本紀』天平十五年(743年)五月乙丑(27日)条を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

☆『続日本紀』天平十五年(743年)五月乙丑(27日)条

<原文>

(天平十五年五月)乙丑。詔曰。如聞。墾田、依養老七年格。限満之後。依例収授。由是。農夫怠倦。開地復荒。自今以後。任為私財、無論三世一身。咸悉永年莫取。其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品・四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者。大領・少領三十町。主政・主帳十町。若有先給地過多茲限。便即還公。姦作隠欺、科罪如法。国司在任之日。墾田一依前格。但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。

<読み下し文>

(天平十五年五月)乙丑。詔して日く、「聞くが如くんば、墾田は養老七年の格[1]に依りて、限満つるの後、例に依りて収授す[2]。是に由りて農夫怠倦して、開ける地復た荒れると。今自り以後は、任[3]に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉永年取る莫れ[4]。其の親王[5]の一品[6]及び一位[7]には五百町、二品及び二位には四百町、三品四品及び三位には三百町、四位には二百町、五位には一百町、六位已下八位已上五十町、初位已下庶人に至るまでは十町。但し郡司は大領[8]・少領[9]には三十町主政[10]・主帳[11]には十町。若し先に給える地、茲の限りより過多なる有らば、便即ち公に還せ。姦作隠せらば、罪を科すること法の如くにせよ。其の国司在任の日は墾田は、一に前格によれ。但し人、田を開かんが為に地を占めんは、先ず国に就きて申し請い、然る後にこれを開け。茲に因りて百姓の妨げ有る地を占請すること得ざれ。若し地を受くるの後、三年に至るも本主開かざれば、他人の開墾を聴せ。」と。

【注釈】

[1]養老七年の格:ようろうななねんのきゃく=格は律令を修正・追加した法令で、「三世一身法」をいう。
[2]例に依りて収授す:れいによりてしゅうじゅす=三世もしくは一身を過ぎると収公する。
[3]任:まま=意のままに。
[4]取る莫れ:とるなかれ=収公してはいけない。
[5]親王:しんのう=天皇の兄弟や皇子。
[6]一品:いっぽん=親王の位階で一品から四品まで四階級あった。
[7]一位:いちい=官人の位階は一位から八位までと初位の位階があり、正一位から少初位下まで三十階級あった。
[8]大領:かみ=郡司の四等官の長官(一番目)。
[9]少領:すけ=郡司の四等官の次官(二番目)。
[10]主政:じょう=郡司の四等官の判官(三番目)。
[11]主帳:さかん=郡司の四等官の主典(四番目)。

<現代語訳>

 天平15年(743年)5月24日。(聖武天皇が)詔して言うことには、「聞くところによると、墾田の取扱いは、養老7年格(三世一身法)に基づき、期限がくれば、従前どおり三世もしくは一身を過ぎると収公していた。しかし、そのために開墾地を耕す農民は張り合いがなくなって怠け、せっかく開墾した土地が再び荒れることとなった。今後は、意のままに私財とすることを認め、三世一身の期限に関係なく、すべて永年にわたり収公してはいけないこととする。ただし、開墾私有地の限度は、親王の一品と官人の一位の位階を持つ者は500町。二品と二位は400町。三品・四品と三位は300町。四位は200町。五位は100町。六位以下八位以上は50町。初位と庶民は10町とする。ただし、郡司については、大領・少領は30町、主政・主帳は10町を限度とする。もし、前から与えられていた田地で、この限度を超えているものがあれば、すみやかに国に返還させよ。不正に土地を所有して隠匿するものがあれば、罪を科すことは法の如くとする。国司の在任中における申請手続きは、前格(三世一身法)に準ずるものとする。ただし、耕地を開墾するためにその土地を占有しようとする者は、まず国に申請すること。それから後に開拓せよ。また、百姓の妨げとなる土地を占有しようとする申請は認めない。もし許可を受けた後、3年を経ても開墾していない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととする。」と。
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