村上天皇(むらかみてんのう)は、926年(延長4年6月2日)に、京都において、第60代天皇とされる醍醐天皇の第十四皇子(母は藤原基経女中宮穏子)として生まれましたが、名は成明(なりあきら)と言いました。平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935~940年)の後、944年(天慶7)に19歳で皇太弟となり、946年(天慶9年4月28日)に同母兄朱雀天皇の譲位により、第62代天皇に即位します。
当初は藤原忠平を関白とし執政させましたが、949年(天暦3)に忠平が亡くなると、以後関白を置かず、親政を行なったとされるものの、実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にありました。
その中でも、朝廷の財政逼迫のため倹約に努め、954年(天暦8)には諸臣に勅して、奢侈を禁じ、売官を停止させます。また、鴻臚館を存置するなど、957年(天徳元)の菅原文時の「意見封事三箇条」を用いたり、貧民救済のため常平所を設置し、乾元大宝を鋳造するなどの治績をあげました。
一方で、学芸に造詣深く、和歌所が設置され、951年(天暦5)に『後撰和歌集』の編纂を下命、960年(天徳4)に「天徳内裏歌合」を催行するなど、歌人としても歌壇の庇護者としても評価され、後世「天暦の治」とも呼ばれています。
しかし、地方政治の紊乱、盗賊の横行、悪疫の流行、水旱の災があり、律令体制が解体途上にある中で、967年(康保4年5月25日)に、京都において在位のまま、数え年42歳で亡くなりました。
尚、皇子具平親王の裔は「村上源氏」となっています。
<村上天皇の代表的な歌>
・「円居(まとゐ)して みれどもあかぬ 藤浪の たたまく惜しき 今日にも有るかな」(新古今和歌集)
・「逢ふことは はつかにみえし 月影の おぼろけにやは あはれとも思ふ」(新古今和歌集)
・「教へおく ことたがはずは 行末の 道とほくとも 跡はまどはじ」(後撰和歌集)
〇村上天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・926年(延長4年6月2日) 京都において、第60代醍醐天皇の第14皇子(母は藤原基経女中宮穏子)として生まれる
・926年(延長4年11月) 親王宣下される
・937年(承平7年11月) 富士山が噴火する
・939年(天慶2年11月) 平将門の乱が起こる
・939年(天慶2年12月) 藤原純友の乱が起こる
・940年(天慶3年2月) 平将門が討たれる
・940年(天慶3年2月15日) 元服する
・941年(天慶4年6月) 藤原純友が討たれる
・941年(天慶4年11月) 藤原忠平が関白となる
・944年(天慶7年) 19歳で皇太弟となる
・946年(天慶9年4月28日) 朱雀天皇の禅を受け、第62代天皇に即位する
・948年(天暦2年) 京都に群盗が横行し、右近衛府・清涼殿などに押し入る
・949年(天暦3年) 関白藤原忠平が亡くなり、以後親政を行なう
・950年(天暦4年) 内裏が焼亡する
・951年(天暦5年10月) 醍醐寺五重塔が建立される
・951年(天暦5年10月) 『後撰和歌集』の編纂を下命する
・954年 (天暦8年) 諸臣に勅して、奢侈を禁じ、売官を停止させる
・957年(天徳元年12月) 菅原文時の「意見封事三箇条」が奏上される、
・958年 (天徳2年3月) 乾元大宝(最後の本朝十二銭)を鋳造させる
・959年 (天徳3年) 公廨稲の一部を割いて別置して諸国に常平所を設ける
・960年(天徳4年3月30日) 「天徳内裏歌合」を催行する
・967年(康保4年5月25日) 京都において在位のまま、数え年42歳で亡くなる