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 今日は、江戸時代中期の1737年(元文2)に、江戸幕府第10代将軍徳川家治の生まれた日ですが、新暦では6月20日となります。
 徳川家治(とくがわ いえはる)は、江戸城内において、徳川家重(後の江戸幕府第9代将軍)の長男(母は側室お幸の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。幼少から明敏で期待され、祖父の第8代将軍吉宗の膝下で養育されます。
 1741年(寛保元)に元服して権大納言に叙任し、1754年(宝暦4)には、閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚しました。1760年(宝暦10)に、父の隠居により徳川宗家の家督を相続し、同年9月2日には江戸幕府第10代将軍の宣下を受け、正二位内大臣に昇叙します。
 1767年(明和4)に田沼意次を側用人とし、1772年(明和9)には老中へ昇格させ、政治の実権を握らせることとなりました。その中で積極的な経済政策により、商品経済の発展をみましたが、他方で賄賂が横行し、田沼時代とも呼ばれます。また、1772年(明和9)に江戸で「明和の大火」が起き、1782年(天明2)に天明の大飢饉(~1787年)が始まり、翌年には浅間山天明大噴火が起こり、百姓一揆、打ちこわしが増加するなど、社会不安の激化した時期となりました。
 その中で、田沼意次に幕政を依存し、自らは絵画・囲碁・将棋などの趣味に没頭することが多くなったと言われていて、近習たちと対局した棋譜が約百局現存、自身の著書として詰将棋百番『御撰象棊攷格』も残されています。
 この間、1779年(安永8)に世子だった徳川家基が18歳で急死、1781年(天明元)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自分の養子としましたが、1786年(天明6年8月25日)に江戸城内において、数え年50歳で亡くなりました。

〇徳川家治関係略年表(日付は旧暦です)

・1737年(元文2年5月22日) 徳川家重(後の江戸幕府第9代将軍)の長男(母は側室お幸の方)として生まれる
・1741年(寛保元年8月12日) 元服して家治を名乗り、従二位権大納言に叙任する
・1745年(延享2年11月2日) 父・家重が江戸幕府第9代将軍の宣下を受ける
・1751年(寛延4年6月20日) 祖父の吉宗が江戸城内において、数え年68歳で亡くなる
・1754年(宝暦4年12月) 閑院宮直仁親王の娘・倫子女王と結婚する
・1760年(宝暦10年2月4日) 右近衛大将を兼任する
・1760年(宝暦10年5月3日) 父の隠居により徳川宗家の家督を相続する
・1760年(宝暦10年9月2日) 江戸幕府第10代将軍の宣下を受け、正二位内大臣に昇叙する
・1761年(宝暦11年6月12日) 父の家重が江戸城内において、数え年51歳で亡くなる
・1762年(宝暦12年10月25日) 長男竹千代(後の徳川家基)が誕生する
・1767年(明和4年7月1日) 田沼意次が側用人になる
・1772年(明和9年1月15日) 田沼意次が老中となる
・1772年(明和9年2月29日) 江戸で「明和の大火」が起き、死者1万4,700人、行方不明者4,060人を出す
・1779年(安永8年2月24日) 家治の世子徳川家基が18歳で急死する
・1780年(安永9年9月4日) 右大臣に転任する
・1781年(天明元年) 一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍徳川家斉)を自分の養子とする
・1782年(天明2年) 印旛沼・手賀沼の干拓工事が始まる
・1782年(天明2年) 天明の大飢饉(~1787年)が始まる
・1783年(天明3年) 浅間山天明大噴火が起こる
・1785年(天明5年) 詰将棋百番『御撰象棊攷格』が完成する
・1786年(天明6年8月25日) 江戸城内において、数え年50歳で亡くなる
・1786年(天明6年9月22日) 死後、正一位太政大臣を追贈される