長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。
〇『信長公記』(第八巻)
三州長篠御合戦の事
五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。
【注釈】
[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。
<現代語訳>
5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。