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 今日は、鎌倉時代の末期1333年(元弘3/正慶2)に、鎌倉幕府第16代執権(最後の執権)北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで、自刃した日ですが、新暦では6月30日となります。
 北条守時(ほうじょう もりとき)は、北条一族で六波羅探題北方だった北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれますが、生年は1295年(永仁3年)とされるものの、はっきりしません。
 1307年(徳治2)に、13歳で従五位下左近衛将監に叙任されますが、父・久時が亡くなっています。1311年(応長元)に 引付衆就任を経ずに、幕府の評定衆となりました。1312年(正和元)に従五位上、1315年(正和4)に正五位下と昇叙し、1319年(元応元)には武蔵守となります。
 1326年(嘉暦元)に嘉暦の騒動が起き、北条一門に執権の引き受け手がいない中で、鎌倉幕府第16代執権となりましたが、実権は北条得宗家の北条高時(第14代執権)や内管領・長崎高資らに掌握されていました。同年に相模守に遷任され、1327年(嘉暦2)に従四位下、1331年(元弘元)に従四位上に昇叙します。
 しかし、1333年(元弘3)に配流先の隠岐の島を脱出した後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵すると、討伐に向かった妹婿の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を滅ぼす事態となりました。
 同じ頃、関東で挙兵した新田義貞軍が鎌倉を攻撃し、守時は幕府軍を率いて、新田義貞軍の将、堀口貞満勢と鎌倉小袋坂で戦います。ところが、敗色濃厚となり、数え年39歳で自刃、子の益時も父に殉じて自害しました。その後の22日には、鎌倉幕府の滅亡となります。

〇北条(赤橋)守時関係略年表(日付は旧暦です)

・1295年(永仁3年)? 六波羅探題北方の北条(赤橋)久時の長男(母は北条宗頼の娘)として生まれる
・1307年(徳治2年11月1日) 従五位下左近衛将監に叙任される
・1307年(徳治2年11月28日) 父・久時が亡くなる
・1311年(応長元年6月5日) 幕府の評定衆となる
・1312年(正和元年12月30日) 従五位上に昇叙する
・1313年(正和2年7月26日) 一番引付頭人を兼帯する
・1315年(正和4年12月15日) 正五位下に昇叙し、讃岐守に転任する
・1317年(文保元年12月27日) 二番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年2月18日) 武蔵守に転任する
・1319年(元応元年閏7月13日) 一番引付頭人に異動する
・1319年(元応元年) 妹の登子が足利高氏(のちの尊氏)の正室となる
・1326年(嘉暦元年3月) 嘉暦の騒動が起きる
・1326年(嘉暦元年4月24日) 鎌倉幕府第16代執権(最後の執権)となる 
・1326年(嘉暦元年8月) 相模守に遷任される
・1327年(嘉暦2年閏9月2日)、従四位下に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 従四位上に昇叙する
・1331年(元弘元年1月5日) 後醍醐天皇が笠置で2度目の挙兵をする(元弘の乱)
・1332年(元弘2年3月) 後醍醐天皇が挙兵に失敗し、隠岐の島へ配流される
・1333年(元弘3年閏2月24日) 後醍醐天皇が隠岐の島を脱出する
・1333年(元弘3年閏2月28日) 後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵する
・1333年(元弘3年4月29日) 足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻す
・1333年(元弘3年5月7日) 足利高氏(のちの尊氏)が六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3年5月) 新田義貞軍が鎌倉を攻撃する
・1333年(元弘3年5月18日) 鎌倉小袋坂の戦いで、数え年39歳で自刃する