本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ)は、安土桃山時代の1559年(永禄2)に京都で、舞楽宗家の加納與助の子として生まれましたが、幼名は与三郎と言いました。
8歳の時に叔父で寂光寺開山・日淵について仏門に入り、法名を日海と称し、寂光寺の塔頭本因坊に住みます。日淵から碁の修業の自由を与えられて、堺の仙也に碁を学び、若年から碁・将棋の達人として知られました。
まず織田信長に仕えて、1578年(天正6)に、名人と称されたのが「名人」の呼称の始まりとされています。1582年(天正10)に織田信長が本能寺の変で亡くなると、翌年豊臣秀吉に召し出されて寵愛を受け、1588年(天正16)に、だれにも黒をもたない資格と碁方 (碁打衆) の法度を申しつける朱印ならびに、20石20人扶持の禄を与えられました。
秀吉が亡くなると、徳川家康にも厚遇を受け、1603年(慶長8)に江戸に幕府が開かれるに際し伴われて出府し、本因坊算砂と改名、初めは碁所・将棋所に任ぜられます。1608年(慶長13)に、大橋宗桂と将棋対局(将棋最古の棋譜が残る)し、同年には、日本初の囲碁出版物である『本因坊碁経』を刊行しました。
1611年(慶長16)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられ、翌年には、幕府より俸禄(50石10人扶持)が与えられたものの、同年に将棋所を大橋宗桂に譲ったとされています。
しかし、1623年(元和9年5月16日)に、江戸において、後継者を算悦(のちの2代目本因坊)として、数え年65歳で亡くなりました。
〇世襲本因坊一覧
・一世 本因坊算砂(1559年生)一世名人
・二世 本因坊算悦(1611年生)
・三世 本因坊道悦(1636年生)準名人
・四世 本因坊道策(1645年生)四世名人 二代目碁所
・五世 本因坊道知(1690年生)六世名人 四代目碁所
・六世 本因坊知伯(1710年生)六段
・七世 本因坊秀伯(1716年生)六段
・八世 本因坊伯元(1726年生)六段
・九世 本因坊察元(1733年生)七世名人 五代目碁所
・十世 本因坊烈元(1750年生)準名人 八段
・十一世 本因坊元丈(1775年生)準名人 八段
・十二世 本因坊丈和(1787年生)八世名人 六代目碁所
・十三世 本因坊丈策(1803年生)七段
・十四世 本因坊秀和(1820年生)準名人 八段
・十五世 本因坊秀悦(1850年生)六段
・十六世 本因坊秀元(1854年生)六段
・十七世 本因坊秀栄(1852年生)九世名人
・十八世 本因坊秀甫(1838年生)準名人 八段
・十九世 本因坊秀栄(再任)
・二十世 本因坊秀元(再任)
・二十一世 本因坊秀哉(1874年生)十世名人