長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)は、安土桃山時代の1575年(天正3)に、土佐国長岡郡岡豊(現在の高知県南国市)で、土佐国の大名だった父・長宗我部元親の四男として生まれましたが、幼名は千熊丸と言いました。1586年(天正14)の戸次川の戦いで長兄信親の戦死後、家督と定められ、豊臣秀吉の小田原征伐、文禄・慶長の役には、父・元親と共に従軍します。
1597年(慶長2)には、父と連名で分国法として著名な『長宗我部元親百箇条』を発布、1599年(慶長4)に父の死去により、土佐の国主となりました。翌年の関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成方)に与して、南宮山に布陣したものの、動くことができず、敗戦となって撤退し、土佐へ戻ります。
徳川家康に詫びを入れ、国替えになる予定でしたが、それに不満の家臣等が浦戸一揆を引き起こし、その責を問われて改易されました。その後、大名復帰運動を続けたものの実らず、剃髪して屏居し、大岩祐夢の名で京都において寺子屋の師匠として生活していたとも言われています。
しかし、1614年(慶長19)に豊臣秀頼の招きで、長宗我部家再興を願って、大坂冬・夏の陣に参陣し、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登と共に、五人衆の一人として、主力部隊を指揮しました。夏の陣で八尾方面に出陣して戦いましたが敗走し、大坂落城後、捕らえられます。その後、京都の大路を引廻され、1615年(慶長20年5月15日)に京都の六条河原で、数え年41歳で、斬首されました。
〇長宗我部盛親関係略年表(日付は旧暦です)
・1575年(天正3年) 土佐国長岡郡岡豊(現在の高知県南国市)で、土佐国の大名だった父・長宗我部元親の四男として生まれる
・1586年(天正14年) 戸次川の戦いで長兄信親の戦死後、家督と定められる
・1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐に、父・元親と共に従軍する
・1592年(天正20年) 朝鮮出兵の文禄の役に、父・元親と共に従軍する
・1598年(慶長元年11月) 盛親名で近習と中間・小者の勤務言動に関する掟2編を制定する
・1597年(慶長2年3月) 父と連名で分国法として著名な『長宗我部元親百箇条』を発布する
・1597年(慶長2年) 朝鮮出兵の慶長の役に、父・元親と共に従軍する
・1599年(慶長4年5月) 父の死去により、土佐の国主となる
・1600年(慶長5年9月15日) 関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成方)に与して、南宮山に布陣したものの、敗戦となって土佐へ戻る
・1600年(慶長5年) 徳川家康に詫びを入れたものの、家臣等が浦戸一揆を引き起こし、その責を問われて改易される
・1601年(慶長6年) 大坂から伏見に移住して大名への復帰運動を行う
・1610年(慶長15年) 剃髪して屏居し、大岩祐夢の名で京都において寺子屋の師匠として生活していたとされる
・1614年(慶長19年) 豊臣秀頼の招きで、長宗我部家再興を願って、大坂冬の陣に参陣する
・1615年(慶長20年5月6日) 大坂夏の陣で八尾方面に出陣して戦うが敗れて敗走する
・1615年(慶長20年5月11日) 京都八幡(京都府八幡市)付近に潜んでいたところを捕らえられる
・1615年(慶長20年5月15日) 京都の大路を引廻されて六条河原で、数え年41歳で、斬首される