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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、国鉄で三河島事故が起こり、列車三重衝突により、死者160人・負傷者296人を出した日です。
 三河島事故(みかわしまじこ)は、当時の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故でした。
 その日の21時37分頃に、田端操車場発水戸行の下り貨物列車が信号を誤認して行き過ぎ、貨物専用線の車止めの砂利山に乗上げて脱線し、下り電車軌道内に飛び出します。そこへ約10秒後、上野発松戸行き下り電車が現場に進行してきて、貨物列車の機関車に接触したため、これも脱線し、右傾して停車しました。乗客多数は、非常用ドアコックを回して扉を開け、上り線側の線路に降り、三河島駅に向って線路上を歩き始めたところ、第二事故発生から5分50秒後、取手発上野行き上り電車が進入し乗客をはねて、線路下の民家へ突入して停車したため、死者160人、負傷者296人の大惨事となります。
 事故の直接原因は、貨物列車の赤信号見落としですが、貨物列車の速度が安全側線内で停止できるほど低くなかったため、車止めに突っ込み脱線し、本線側に傾斜します。これに下り電車が接触したのは、第一事故のわずか10秒後で、避けることは困難だったものの、この時点では死者ゼロ、負傷者25名でした。
 しかし、1951年(昭和26)の桜木町事故(列車火災)で、乗客が車外に避難できず多くの焼死傷者を出したことにより、設けられた乗客用の非常用ドアコックを乗客が勝手に使用し線路に降りたことが犠牲者を拡大します。そして、被害拡大の最大要因は、5分50秒に進入してきた上り電車の抑止手配の遅れで、事故現場から100mのところに三河島東部信号扱所があって2人の掛員がいましたが、上司への報告や現場の確認に追われ、上り列車を止める動作が間に合わなかったことでした。
 この事故は、その前後に国鉄で起きた桜木町事故(1951年)、洞爺丸事故(1954年)、紫雲丸事故(1955年)、鶴見事故(1963年)と共に、国鉄戦後五大事故と呼ばれるようになります。

〇国鉄戦後五大事故(日本国有鉄道が存在した1949年6月~1987年4月の間)

・桜木町事故 1951年(昭和26)4月24日 東海道本線(現在の根岸線)桜木町駅構内で車両火災が発生(106人死亡・92人負傷)
・洞爺丸事故 1954年(昭和29)9月26日 青函連絡船・函館沖 「洞爺丸」など連絡船5隻が洞爺丸台風にあおられ沈没(1,430人死亡)
・紫雲丸事故 1955年(昭和30)5月11日 宇高連絡船・女木島沖 「紫雲丸」が貨物船の「第三宇高丸」と衝突し沈没(166人死亡・122人負傷)
・三河島事故 1962年(昭和37)5月3日 常磐線三河島駅構内で下り貨物列車に下り電車が衝突、さらに上り電車が突っ込む三重衝突(160人死亡・296人負傷)
・鶴見事故 1963年(昭和38)11月9日 東海道本線鶴見駅~新子安駅間で下り貨物列車に上りの電車が衝突、さらに下り電車が突っ込む三重衝突(161人死亡・120人負傷)

〇太平洋戦争後の列車大事故(死者100人以上)

・1947年(昭和22)2月25日 八高線事故(死者184人・負傷者67人)
・1951年(昭和26)4月24日 桜木町事故(死者106人・負傷者92人)
・1962年(昭和37)5月3日 三河島事故(死者160人・負傷者296人)
・1963年(昭和38)11月9日 鶴見事故(死者161人・負傷者120人)
・2005年(平成17)4月25日 宝塚線(福知山線)事故(死者107人・負傷者562人)