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 今日は、江戸時代前期の1616年(元和2)に、武将・江戸幕府初代将軍徳川家康の亡くなった日ですが、新暦では6月1日となります。
 徳川家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代の1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。
 6歳のとき、人質として駿府の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。1555年(弘治元)に今川義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。
 1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。
 翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦いで信玄に大敗しました。
 しかし、1575年(天正3)の長篠の戦いで家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。
 1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。
 1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めたものの、1616年(元和2年4月17日)に、駿府(現在の静岡県静岡市)において、数え年75歳で亡くなりました。

〇徳川家康関係略年表(日付は旧暦です)

・1542年(天文11年12月26日) 三河国岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれる
・1544年(天文13年9月) 広忠は於大の方を離別し、3歳で母と別れることとなる
・1547年(天文16年8月) 駿府へ送られる途中、織田方に捕らわれる
・1549年(天文18年11月) 今川・織田間の捕虜交換協定によって、今川義元の庇護下におかれる
・1555年(弘治元年3月) 義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のる
・1557年(弘治3年1月) 16歳で今川氏一門の女築山殿と結婚する
・1558年(永禄元年) 初陣し、この頃元康と改名する
・1560年(永禄3年5月) 桶狭間の戦いで大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立する
・1561年(永禄5年1月15日) 織田信長と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6年) 名を家康と改める
・1564年(永禄7年2月) 三河一向一揆を鎮圧
・1564年(永禄7年6月) 三河一国を平定する
・1567年(永禄9年12月29日) 勅許を得て徳川と改姓し、従五位下三河守に叙任される
・1568年(永禄10年) 遠江を占領する
・1570年(元亀元年) 遠江引馬(浜松)に本拠を移す
・1570年(元亀元年6月28日) 姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破する
・1570年(元亀元年10月8日) 武田信玄と絶って、上杉謙信と同盟する
・1572年(元亀3年12月22日) 三方原の戦いで信玄に大敗する
・1575年(天正3年5月21日) 長篠の戦いで家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝する
・1579年(天正7年) 信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ、築山殿を処刑する
・1582年(天正10年3月) 信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れる
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変において信長が死亡すると、旅先の堺から岡崎へ逃げかえる
・1582年(天正10年9月) 天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収める
・1584年(天正12年2月27日) 従三位の参議に叙任される
・1584年(天正12年) 羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙したが、和睦して臣下となる
・1586年(天正14年) 秀吉の妹朝日姫が家康の正室となって浜松に赴く
・1589年(天正17年) 7ヶ条の定書を領内の村々に公布して、年貢や夫役について規定する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原征伐に従軍する
・1590年(天正18年8月1日) 後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入る
・1591年(天正19年) 九戸政実の乱鎮定のため陸奥岩手沢に出陣する
・1592年(文禄元) 文禄の役では、肥前名護屋に駐留する
・1596年(慶長元年) 正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなす
・1598年(慶長3年8月) 秀吉が亡くなると、朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮する
・1599年(慶長4年) 五大老の一人前田利家の死後、秀吉の築いた伏見城本丸に入る
・1600年(慶長5年9月15日) 関ヶ原の戦いで勝利する
・1602年(慶長7年) 京都二条城の造営を命じる
・1603年(慶長8年2月12日) 征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開く
・1605年(慶長10年4月16日) 将軍職を秀忠に譲り、大御所として実権を掌握する
・1607年(慶長12年) 駿府城に引退する
・1614年(慶長19年) 大坂冬の陣が起こる
・1615年(元和元年5月8日) 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
・1615年(元和元年7月7日) 武家諸法度が定められる
・1615年(元和元年7月17日) 禁中並公家諸法度が定められる
・1616年(元和2年3月17日) 太政大臣となる
・1616年(元和2年4月17日) 駿府において、数え年75歳で亡くなる