中里介山(なかざと かいざん)は、神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)で、父・中里弥十郎、母・ハナの次男として生まれましたが、本名は弥之助と言いました。
1898年(明治31)に西多摩尋常高等小学校を卒業後上京して電話交換手となりますが、1900年(明治33)には、母校の代用教員となります。その後、独学で正教員となり、小説を書くようになって社会主義に接近し、1903年(明治36)に「平民新聞」の懸賞小説に『何の罪』が佳作入選しました。
翌年日露戦争下において、同誌に反戦詩「乱調激韵」などを発表し、非戦論の立場に立ちます。その後懐疑的になり、宗教的な模索も続けつつ、貧民児童教育に専念しましたが、1906年(明治39)に都新聞に入社(のち社会部長)し、随想集『古人今人』を出しました。同紙に『氷の花』(1909年)を連載し、以来、『高野の義人』(1910年)などの時代小説を次々に発表、1913年(大正2)からは、代表作となる『大菩薩峠』の連載を開始します。
これによって、一躍文名を高め、大衆文学に新時代を開いたものの、1919年(大正8)に都新聞を退社し、執筆に専念しながら、都会や文壇から離れ、多摩地方に草庵を結びました。ここでは、道場や塾を開いて、「敬天愛人克己」をスローガンとする教育にあたり、超然とした生活を送ります。
太平洋戦争下で、文芸家協会が日本文学報国会に再編されたときに、入会を拒否するという気概を示しましたが、1944年(昭和19年)4月28日に、腸チフスのため東京都下の病院において、59歳で亡くなりました。
尚、末尾に中里介山の反戦詩「乱調激韵」を注釈付きで全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇中里介山の主要な著作
・小説『何の罪』(1903年)「平民新聞」懸賞小説佳作入選
・小説『笛吹川』(1905年)
・随想集『古人今人』(1906年)
・小説『氷の花』(1909~10年)
・小説『高野(こうや)の義人』(1910年)
・小説『島原城』(1911年)
・小説『室の遊女』(1911年)
・小説『文覚』(1912年)
・小説『夢殿』未完(1929年)
・『日本武術神妙記』(1933年)
・小説『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』(1913~41年)
・小説『黒谷(くろたに)夜話』
・自伝『百姓弥之助の話』
・小説『吉田松陰』
〇中里介山の反戦詩「乱調激韵[1](らんちょうげきいん)」
鍬投げて、我今日出立つ故山の圃[2]。
籬[3]に凭りて[4]我を送る老たる母。
白髪愁長くして老賑涙あふる。
慇懃[5]、袖を引く、我がうない子。
無心、彼は知ず、父が死出の旅。
我が腸断つと云わんや、
国の為なり、君の為なり、
さらばよ、我が鍬とりし畑。
さらばよ、我が鋤洗いし小川。
我を送る郷関[6]の人、
願ば、暫し其『万歳』の声を止よ。
静けき山、清き河。
其の異様なる叫びに汚れん。
万歳の名に依りて、死出の人を送る。
我豈憤らんや、
国の為なり、君の為なり。
渺渺[7]煙波[8]三千里、
東、郷関[6]を顧みて我が腹断つ。
西、前途を望めば夏雲累々。
泣かんか、笑わんか、叫ばんか。
一夜、舷[9]を叩いて月に対す、
あー我、怯なりき、
懐わ黄槊[10]高吟[11]の英雄に飛ばず。
家郷を憶うて涙雨の如し。
我豈泣かんや、
国の為なり、君の為なり。
落日斜なる荒原の夕べ、
満目[12]に横う伏屍を見よ、
夕陽を受けて色暗澹[13]。
夏草の闇を縫うて流る
其腥き[14]人の子の血を見よ。
敵、味方、彼も人なり、我も人也。
人、人を殺さしむるの権威ありや。
人、人を殺すべきの義務ありや。
あー言ふこと勿れ。
国の為なり、君の為なり。
「平民新聞」第39号(1904年発行)より
【注釈】
[1]激韵:げきいん=激しい響き。
[2]圃:ほ=囲いをした畑。菜園。
[3]籬:まがき=竹や柴などで目をあらく編んだ垣。ませ。ませがき。
[4]凭りて:もたりて=よりかかって。
[5]慇懃:いんぎん=礼儀正しく、ていねいなこと。懇切。ねんごろ。
[6]郷関:きょうかん=故郷の国ざかい。また、ふるさと。郷里。
[7]渺渺:びょうびょう=広くはてしないさま。遠くはるかなさま。
[8]煙波:えんば=もやのたちこめた水面。また、遠く広い水面が煙ったように波立っている様子。
[9]舷:ふなばた=ふなべり。
[10]黄槊:おうさく=鉾を横たえる。
[11]高吟:こうぎん=声高く詩歌を吟ずること。高詠。高唱。
[12]満目:まんもく=目にいっぱいになること。見渡すかぎり。あたり一面。
[13]暗澹:あんたん=暗く陰気なさま。将来の見通しが立たず、全く希望がもてないさま。
[14]腥き:なまぐさき=生肉のにおい。