ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年03月

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 今日は、明治時代後期の1906年(明治39)に、日本を代表する物理学者の一人朝永振一郎の生まれた日です。
 朝永振一郎(ともなが しんいちろう)は、東京市小石川区小日向三軒町(現在の文京区小日向)で、哲学者の父・朝永三十郎の長男として生まれました。
 1913年(大正2)に父の京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都に引っ越します。京都府立京都一中(現在の府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、第三高等学校へ進み、1926年(大正15)に卒業後、京都帝国大学理学部物理学科へ入学し、湯川秀樹と共に学びました。
 1929年(昭和4)に卒業後は、京都帝国大学の無給副手に着任します。1931年(昭和6)に理化学研究所仁科研究室の研究員となり、1937年(昭和12)にはドイツへ留学し、ライプツィヒ大学のハイゼンベルクのもとで原子核物理学や場の量子論を学びました。
 2年後に第2次世界大戦勃発のため帰国し、留学中の論文で東京帝国大学から理学博士号を取得します。1941年(昭和16)に東京文理科大学(現在の筑波大学)教授となり、中間子の中間結合論(場の理論)や超多時間理論を発表しました。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)にくりこみ理論を発表、翌年「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」により小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞します。1949年(昭和24)には、東京教育大学教授となり、プリンストン高等研究所に滞在して、量子多体系の研究を行いました。
 これらの業績により、1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、翌年には文化勲章を受章します。1956~61年には東京教育大学長となり、1963年から日本学術会議会長も務めました。
 そして、1965年(昭和40)にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞(湯川秀樹に続き日本二人目)するに至ります。
 一方で、原水爆禁止と原子力平和利用などを訴え、世界平和アピール7人会に参加するなど、平和運動にも尽力しましたが、 1979年(昭和54)7月8日に、東京において、73歳で亡くなりました。

〇朝永振一郎の主要な著作

・『量子力学』第1巻、東西出版社(1948年)
・『量子力学的世界像』 弘文堂(1949年)
・『物理学読本』 学芸社(1951年)
・『量子力学』第1巻、学芸社(1951年)
・『量子力学』第1巻、みすず書房(1952年)
・『量子力学』第2巻、みすず書房(1953年)
・『鏡のなかの世界』 みすず書房(1965年)
・『科学と科学者』 みすず書房(1968年)
・『スピンはめぐる 成熟期の量子力学』 中央公論社(1974年)
・随筆集『庭にくる鳥』 みすず書房(1975年)
・『鏡の中の物理学』 講談社(1976年)
・『わが師わが友』 講談社(1976年)
・『物理学とは何だろうか』上・下、岩波書店(1979年)
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 今日は、古墳時代の585年(敏達天皇14)に、仏教排斥を唱える物部守屋が、仏像・寺院等を焼打ちにした日ですが、新暦では5月4日となります。
 仏教は、欽明天皇の時代に伝来したと言われていますが、敏達天皇の御代になって、585年(敏達天皇14)2月に、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はこれを許可しましたが、この頃から疫病が流行し出します。
 同年3月1日に守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めました。天皇は仏法を止めるよう詔し、3月30日に、守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵しました。その上で、使者(佐伯造御室)を派遣して、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって、海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑に処するという事件が起こります。
 しかし、疫病は更にひどくなって、天皇も病に伏すことになりました。馬子は、自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、天皇は馬子に限り許すことになります。
 しばらくして敏達天皇が亡くなった後も、仏教を広めようとする蘇我氏と旧来の神々を崇める物部氏との対立は続き、とうとう、2年後の587年(用明天皇2)7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めました。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて守屋の館を攻め、守屋は射殺されます。これ以後、蘇我氏の勢力が増大しました。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻20の渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)14年の条の該当部分を抜粋し、注釈と現代語訳を付けておきましたので、ご参照下さい。

〇「日本書紀」巻第二十 渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)十四年の条

<原文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」詔曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
是日、無雲風雨。大連、被雨衣、訶責馬子宿禰與從行法侶、令生毀辱之心。乃遣佐伯造御室更名、於閭礙、喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。

 「岩波古典文学大系本」(卜部兼方・兼右本)より

<読み下し文>

三月丁巳朔、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と、奏して曰く、「何の故にか肯て臣が言を用いたまはぬ。考天皇[1]より陛下に及び、疫疾[2]流く行はれて、國の民絶えつ可し。豈に專に蘇我臣が佛法を興し行ふに由るに非ずや。」詔して曰く、「灼然なり[3]、宜しく佛法を斷めよ。」丙戌、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡床[4]に踞坐り[5]、其の塔を斫倒し、火を縱けて之を燔く、幷せて佛像と佛殿とを燒く。既にして燒けし所の餘りの佛像を取りて、難波[6]の堀江に棄てしむ。
是の日に、雲無くて風ふき雨ふる。大連、被雨衣[7]して、馬子宿禰と從ひて法を行へる侶とを訶責[8]して、毀り辱かしむるの心を生さしむ。乃ち佐伯造御室(更の名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰の供る所の善信等の尼を喚さしむ。是に由りて、馬子宿禰、敢て命に違はず、惻み愴き啼泣つヽ、尼等を喚し出して、御室に付く。有司[9]、便ち尼等の三衣[10]を奪ひて、海石榴市[11]の亭[12]に禁錮へ[13]、楚撻ちき[14]。

【注釈】
[1]考天皇:かぞのみかど=欽明天皇のこと。
[2]疫疾:えやみ=疫病。
[3]灼然なり:いやちこなり=明白となること。とてもはっきりすること。非常に明らかになること。
[4]胡床:あぐら=腰を掛ける座具の一種。床几のこと。
[5]踞坐り:しりうたげをすわり=うずくまること。しゃがむこと。あぐらをかくこと。
[6]難波:なには=現在の大阪市およびその周辺地域の古称。
[7]被雨衣:あまよそい=雨具を付けること。
[8]訶責:かしゃく=しかり責めること。責めさいなむこと。
[9]有司:つかさ=役人。
[10]三衣:さんえ=僧の着る大衣、七条、五条の三種の袈裟のこと。僧衣。
[11]海石榴市:つばきいち=現在の奈良県桜井市付近にあった。
[12]亭:うまやたち=駅舎。駅家。大和政権が運営した交通施設で、馬や人員を常備した。
[13]禁錮へ:からめとらえへ=受刑者を監獄に拘置すること。
[14]楚撻ちき:しりかたうちき=鞭打ちの刑にする。

<現代語訳>

3月1日、大連の物部弓削守屋と大夫の中臣勝海が奏上するのには、「どうして私どもの進言を用いられないのですか。欽明天皇より陛下の御代に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えそうです。これは専ら、蘇我氏が仏法を広めたことによるのに間違えありません。」天皇が詔して、「これは明白である。すぐに仏法を止めるように。」と言われた。30日に大連の物部弓削守屋は自ら寺に赴き、床几にあぐらをかき、仏塔を破壊し、火を着けた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼損した仏像を集めて、難波の堀江に投げ込ませた。
この日、雲も見えないのに風雨となり、大連(物部弓削守屋)は雨具をつけた。馬子宿禰やこれに従っていた仏法信者を面罵し、人々の信頼がなくなるようにした。その上で、佐伯造御室(別名は於閭礙)を遣して、馬子宿禰に従っている善信等の尼を召喚させた。これについては、馬子宿禰はあえて命令には逆らわず、ひどく嘆き泣き叫びながら、尼らを呼び出して、使者の御室に託した。役人たちは、尼達の三衣を剥ぎとって、捕縛して海石榴市(現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打ち刑にした。
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、「米穀統制法」(昭和8年法律第24号)が公布(施行は9月20日)された日です。
 米穀統制法(べいこくとうせいほう)は、米価の大幅な変動を抑制するため、米の数量と価格を調節し、その流通を統制するため、政府による米価基準の設定、輸出入制限などを定めた法律でした。
 大正時代初期までは、米価は自由放任でしたが、1918年(大正7)の米騒動、および第一次世界大戦終結により、米価は不安定な状態となり、原敬内閣時に植民地米増産を中心とする食糧自給政策と1921年(大正10)の「米穀法」による価格調節・安定策が実施されます。これが、満州事変が始まる中で、1931年(昭和6)に改正され、売買に際し米価の最高価格及び最低価格が定められるようになりました。
 さらに、公定した最高価格・最低価格に基づき買入・売渡を無制限に行い、輸出入制限を常時実施するようにしたのが、1933年(昭和8)3月29日公布の「米穀統制法」(昭和8年法律第24号)で、「米穀法」にかわり、同年9月20日から施行されます。この法律は、1935年(昭和10)頃までの農村恐慌期、米過剰期には米価の一定の引上げ、安定のために機能しました。
 1936年(昭和11)に改正され、補完的法律として「米穀自治管理法」が制定されて、管理委員会が定めた一定数量の米を市場供給制限のために産地貯蔵させることで過剰米の統制が行われます。しかし、翌年日中戦争が勃発すると担い手不足等による国内生産の縮小、朝鮮・台湾での消費増加による移入量減少などによる米不足が起こりました。
 そこで、1939年(昭和14)には「米穀配給統制法」が制定され、取引所は廃止され、代替として半官半民の日本米穀株式会社を設立、米穀の卸売商や小売商は許可制および組合服従化され、統制強化されます。
 そして、1941年(昭和16)12月8日に太平洋戦争が始まると、翌年2月21日には米の供出・配給制と公定米価を定めた「食糧管理法」(昭和17年法律第40号)が公布され、「米穀統制法」は7月1日をもって廃止されました。以後、流通米全量に対して国家管理がされる状況が戦後までしばらく続きました。
 尚、以下に「米穀統制法」(昭和11年法律第23号による改正後の条文)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「米穀統制法」(昭和8年法律第24号)

第一条 政府ハ米穀ノ数量又ハ市価ヲ調節シ米穀ノ統制ヲ図ル為本法ニ依リ米穀ノ買入及売渡ヲ行フ

第二条 政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ毎年米穀ノ最低価格及最高価格ヲ公定シ之ヲ告示ス
2 前項ノ最低価格及最高価格ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ米穀生産費、家計費及物価其ノ他ノ経済事情ヲ参酌シテ之ヲ定ム
3 政府ハ第一項ノ最低価格ノ決定ニ付テハ勅令ノ定ムル所ニ依リ金利及保管料ヲ加算スルコトヲ得
4 前二項ノ規定ニ依リ定メタル最低価格又ハ最高価格ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ物価ノ変動著シキ場合又ハ米穀ノ需給状況ニ著シキ変動ヲ生ジ若ハ生ズルノ虞アル場合ニ於テハ之ヲ改定スルコトヲ得

第三条 政府ハ前条ノ最低価格又ハ最高価格ヲ維持スル為勅令ノ定ムル所ニ依リ最低価格ニ依ル売渡ノ申込又ハ最高価格ニ依ル買入ノ申込ニ応ジテ米穀ノ買入又ハ売渡ヲ為ス

第四条 政府ハ道府県ヨリ該地域外ニ又ハ朝鮮若ハ台湾ヨリ内地ニ移出スル米穀ノ数量ヲ月別平均的ナラシムル為勅令ノ定ムル所ニ依リ出廻期ニ於テ米穀ノ買入ヲ為シ出廻期後ニ於テ米穀ノ売渡ヲ為スコトヲ得
2 前項ノ買入又ハ売渡ノ価格ハ時価ニ準拠シテ之ヲ定ム

第四条ノ二 政府ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ災害、事変其ノ他避クベカラザル事由アル場合ニ於テ米穀ノ配給上特ニ必要アリト認ムルトキハ米穀ノ市価ニ悪影響ヲ及ボサザル場合ニ限リ所有米穀ノ総数量ヨリ最高価格ヲ維持スル為必要ナル数量ヲ控除シタル数量ノ範囲内ニ於テ道府県ニ対シ米穀ノ売渡ヲ為スコトヲ得
2 前項ノ売渡ノ価格ハ時価ニ準拠シテ之ヲ定ム

第五条 政府ハ必要ニ応ジ所有米穀ノ貯蔵、買換、交換、加工及整理ノ為ニスル売渡並ニ輸入ヲ目的トスル米穀ノ買入及輸出ヲ目的トスル米穀ノ売渡ヲ為スコトヲ得
2 前項ノ買入又ハ売渡ノ価格ハ時価ニ準拠シテ之ヲ定ム

第六条 政府ガ米穀ノ買換ヲ為サントスル場合ニ於テ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ買換ニ代ヘ買換ノ為売渡ヲ為サントスル米穀ヲ道府県ニ対シ貸付スルコトヲ得

第七条 米穀ノ輸入又ハ輸出ハ勅令ニ別段ノ定アル場合ヲ除クノ外政府ノ許可ヲ受クルニ非ザレバ之ヲ為スコトヲ得ズ

第八条 政府ハ米穀ノ統制ヲ図ル為特ニ必要アリト認ムルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ期間ヲ指定シ粟、高梁、黍、小麦又ハ小麦粉ノ輸入ヲ制限スルコトヲ得

第九条 政府ハ米穀ノ統制ヲ図ル為特ニ必要アリト認ムルトキハ勅令ヲ以テ期間ヲ指定シ米穀、粟、高梁、黍、小麦又ハ小麦粉ノ輸入税ヲ増減又免除スルコトヲ得

第十条 米穀生産費、家計費並ニ米穀其ノ他ノ穀物ノ生産高、現在高、移動及価格ノ調査ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十一条 政府ハ前条ニ規定スル事項其ノ他米穀ノ統制ニ関シ必要ナル事項ヲ調査スル為特ニ必要アリト認ムルトキハ米穀其ノ他ノ穀物ノ生産者、取引業者、倉庫業者其ノ他占有者ニ対シ必要ナル事項ノ報告ヲ命ジ又ハ官吏若ハ吏員ヲシテ其ノ営業所、倉庫其ノ他ノ場所ニ臨検シ帳簿物件ヲ検査セシムルコトヲ得
2 前項ノ場合ニ於テハ当該官吏又ハ吏員ハ其ノ身分ヲ証明スル証票ヲ携帯スベシ

第十二条 第七条ノ規定ニ違反シテ米穀ヲ輸入若ハ輸出シ又ハ第八条ノ規定ニ依ル制限ニ違反シテ粟、高梁、黍、小麦又ハ小麦粉ヲ輸入シタル者ハ五千円以下ノ罰金ニ処シ其ノ米穀、粟、高梁、黍、小麦又ハ小麦粉ヲ没収ス若シ其ノ全部又ハ一部ヲ没収スルコト能ハザルトキハ其ノ価格ヲ追徴ス
2 営業者未成年者又ハ禁治産者ナルトキハ前項ノ罰則ハ之ヲ法定代理人ニ適用ス但シ営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有スル未成年者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ
3 営業者ハ其ノ代理人、戸主、家族、雇人其ノ他ノ従業者ガ其ノ業務ニ関シ第七条ノ規定又ハ第八条ノ規定ニ依ル制限ニ違反シタルトキハ自己ノ指揮ニ出デザルノ故ヲ以テ其ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ズ
4 法人ノ代表者其ノ他ノ従業者法人ノ業務ニ関シ第七条ノ規定又ハ第八条ノ規定ニ依ル制限ニ違反シタルトキハ其ノ罰則ヲ法人ニ適用ス

第十三条 第十一条第一項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シ又ハ当該官吏若ハ吏員ノ職務ノ執行ヲ妨ゲタル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス

  附 則

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 米穀法ハ之ヲ廃止ス
3 本法施行前米穀法第三条ノ規定ニ依リ為シタル許可ハ本法第七条ノ規定ニ依リ之ヲ為シタルモノト看做ス
4 本法施行前ニ米穀法ノ罰則ヲ適用スべキ行為アリタルトキハ本法施行ノ後ト雖モ仍其ノ罰則ヲ適用ス

  附 則 (昭和十一年法律第二十三号)

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 第四条ノ二ノ規定ニ依ル米穀ノ売渡ニ関スル一切ノ歳入歳出ハ米穀需給調節特別会計ニ属セシム

   「法令全書」より
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 今日は、江戸時代前期の1682年(天和2)に、連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の亡くなった日(宗因忌)ですが、新暦では5月5日となります。
 西山宗因(にしやま そういん)は、1605年(慶長10)肥後国八代(現在の熊本県八代市)で、肥後熊本加藤家家臣の父・西山次郎左衛門の子として生まれましたが、名は豊一(とよかず)と言いました。
 肥後八代城代加藤正方の小姓として仕え、連歌を愛好する正方の感化を受け、各地の連歌会に出席し、作品を残すようになりました。17歳から26歳まで京都へ遊学し、里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだものの、1632年(寛永9)に主家改易で浪人となります。
 翌年上洛し、昌琢の庇護を受け、京都の連歌会に出席、また江戸の武家連歌壇とも関係を持つようになりました。1647年(正保4)に、長らく中絶していた大坂天満宮の連歌所宗匠に迎えられ、1649年(慶安2)には、天満宮月次(つきなみ)連歌を再興、1652年(慶安5)には菅家神退七百五十年万句を興行するなどしています。
 全国各地に門人が出来、その招きを受けて出向くことも結構あって、『津山紀行』(1653年)、『松島一見記』(1663年)、『西国道日記』(1665年)などの紀行も残しました。
 一方で俳諧も始め、自由・斬新な作風は、貞門の古風にあきたらない俳人たちに支持されて、延宝年間(1673~81年)には談林派俳諧の第一人者となり、門下から井原西鶴・岡西惟中・菅野谷高政・松尾芭蕉・田代松意などを輩出します。
 晩年には、談林末流の放縦乱雑に愛想をつかし、連歌に回帰しましたが、1682年(天和2年3月28日)に、数え年78歳で亡くなりました。

<西山宗因の代表的な句>

・「さればこそ 爰(ここ)に談林の木あり 梅の花」
・「にて候 高野山より 出たる芋」   
・「阿蘭陀の 文字か横たふ 天つ雁」
・「これやこの 江戸紫の 若なすび」  
・「五月雨や 天下一枚 うち曇り」  
・「となん一つ 手紙のはしに 雪のこと」
・「ながむとて 花にもいたし 頸の骨」  
・「世の中よ 蝶々とまれ かくもあれ」
・「里人の わたり候ふか 橋の霜」
・「青海苔や 浪の渦巻く 摺小鉢」

〇西山宗因の主要な著作

・紀行『津山紀行』(1653年)
・連歌『伏見千句』(1657年)
・紀行『松島一見記』(1663年)
・紀行『西国道日記』(1665年)
・連歌『小倉千句』(1665年)
・俳諧『宗因千句』(1673年)
・俳諧『西翁十百韻(とっぴゃくいん)』(1673年)
・俳諧『西山宗因釈教俳諧』(1674年)
・俳諧『宗因五百句』(1674年)
・俳諧『天満千句』(1676年)
・俳諧『宗因七百韻』(1677年)
・連歌『浜宮千句』(1678年)
・連歌『延宝千句』(1679年)
・連歌『風庵懐旧千句』(1679年)
・俳諧『梅翁宗因発句集』素外編(1681年)
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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、小説家・ノンフィクション作家山本茂実の亡くなった日です。
 山本茂実(やまもと しげみ)は、大正時代の1917年(大正6)2月20日に、長野県東筑摩郡松本村(現在の松本市並柳)の農家の長男として生まれました。松本青年学校に通いましたが、召集され近衛歩兵第3連隊に入ります。
 太平洋戦争後は、青年運動に参加し、1947年(昭和22)に書いた処女作『生き抜く悩み 哲学随想録』が大ヒットとなりました。翌年上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となり、「葦会」を組織して、雑誌「葦」を創刊します。
 1952年(昭和27)総合雑誌「潮」を創刊し、編集長となって、『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年) 、『結婚と云う宿命について』(1956年)、『庶民の常識』(1956年)を出版するなど、働く若者達のサークル活動に影響を与えます。しかし、葦出版社の経営状態が悪化し、1960年(昭和35)に雑誌「葦」が廃刊となって編集長としての地位を失いました。
 以後は、フリーライターとして活動し、1968年(昭和43)にノンフィクション『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を発表、250万部に達するベストセラーとなります。この作品は、1979年(昭和54)に映画化(監督:山本薩夫、主演:大竹しのぶ)されて大ヒット(配給収入14億円)し、テレビドラマ化もされました。1980年(昭和55)には、『続 あゝ野麦峠』も出版され、1982年(昭和57)には、同じ山本薩夫監督で、映画の続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も制作されています。
 その後も、著作活動などを続けましたが、1998年(平成10)に、81歳で亡くなりました。尚、松本市歴史の里に「山本茂実記念館」が作られています。

〇『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』とは?

 山本茂実著の飛騨地方から信州へ来た製糸工女のルポルタージュで、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、朝日新聞社から出版され、1972年(昭和47)には、新版が刊行されました。
 明治時代前期から大正時代にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、長途野麦街道を徒歩で信州の製糸工場へ働きに行きました。まず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊し、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に、だいたい3泊4日の行程で至ったのです。
 この旅は、1934年(昭和9)に国鉄高山線が開通するまで続きました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事したのです。
 また、山本薩夫監督によって、1979年(昭和54)に映画化され、大きな反響を呼びました。続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年に同じく山本薩夫監督によって映画化されています。

〇山本茂実の主要な著書

・『生き抜く悩み 哲学随想録』(1948年)
・『救われざるの記』(1950年)
・『嵐の中の人生論』(1953年)
・『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年)
・『恋愛・結婚・家』(1955年)
・『愛・自由・生きること』(1955年)
・『結婚と云う宿命について』(1956年)
・『庶民の常識』(1956年)
・『苦しんでいるのはあなただけではない』(1959年)
・『松本連隊の最後』(1966年)
・『街道・風土と伝説の旅』(1966年)
・『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(1968年)
・『人間の出発 自らの何を期するか』(1969年)
・『根性教育の実践』(1969年)
・『私をささえた母の一言 貫く信念の座右銘』(1970年)
・『喜作新道 ある北アルプス哀史』(1971年)
・『高山祭 この絢爛たる飛騨哀史』(1976年)
・『塩の道・米の道』(1978年)
・『続 あゝ野麦峠』(1980年)
・『初めて知った生きている証』(1982年)
・『海に立つ墓標』(1982年)
・『日本青年は健在だった バングラデシュ紀行』(1985年)
・『山本茂実アフリカを行く』(1989年)
・『人生、幕引きは芸術である わが心の姨捨山』(1993年)
・『カチューシャ可愛や 中山晋平物語』(1994年)
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