西山宗因(にしやま そういん)は、1605年(慶長10)肥後国八代(現在の熊本県八代市)で、肥後熊本加藤家家臣の父・西山次郎左衛門の子として生まれましたが、名は豊一(とよかず)と言いました。
肥後八代城代加藤正方の小姓として仕え、連歌を愛好する正方の感化を受け、各地の連歌会に出席し、作品を残すようになりました。17歳から26歳まで京都へ遊学し、里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだものの、1632年(寛永9)に主家改易で浪人となります。
翌年上洛し、昌琢の庇護を受け、京都の連歌会に出席、また江戸の武家連歌壇とも関係を持つようになりました。1647年(正保4)に、長らく中絶していた大坂天満宮の連歌所宗匠に迎えられ、1649年(慶安2)には、天満宮月次(つきなみ)連歌を再興、1652年(慶安5)には菅家神退七百五十年万句を興行するなどしています。
全国各地に門人が出来、その招きを受けて出向くことも結構あって、『津山紀行』(1653年)、『松島一見記』(1663年)、『西国道日記』(1665年)などの紀行も残しました。
一方で俳諧も始め、自由・斬新な作風は、貞門の古風にあきたらない俳人たちに支持されて、延宝年間(1673~81年)には談林派俳諧の第一人者となり、門下から井原西鶴・岡西惟中・菅野谷高政・松尾芭蕉・田代松意などを輩出します。
晩年には、談林末流の放縦乱雑に愛想をつかし、連歌に回帰しましたが、1682年(天和2年3月28日)に、数え年78歳で亡くなりました。
<西山宗因の代表的な句>
・「さればこそ 爰(ここ)に談林の木あり 梅の花」
・「にて候 高野山より 出たる芋」
・「阿蘭陀の 文字か横たふ 天つ雁」
・「これやこの 江戸紫の 若なすび」
・「五月雨や 天下一枚 うち曇り」
・「となん一つ 手紙のはしに 雪のこと」
・「ながむとて 花にもいたし 頸の骨」
・「世の中よ 蝶々とまれ かくもあれ」
・「里人の わたり候ふか 橋の霜」
・「青海苔や 浪の渦巻く 摺小鉢」
〇西山宗因の主要な著作
・紀行『津山紀行』(1653年)
・連歌『伏見千句』(1657年)
・紀行『松島一見記』(1663年)
・紀行『西国道日記』(1665年)
・連歌『小倉千句』(1665年)
・俳諧『宗因千句』(1673年)
・俳諧『西翁十百韻(とっぴゃくいん)』(1673年)
・俳諧『西山宗因釈教俳諧』(1674年)
・俳諧『宗因五百句』(1674年)
・俳諧『天満千句』(1676年)
・俳諧『宗因七百韻』(1677年)
・連歌『浜宮千句』(1678年)
・連歌『延宝千句』(1679年)
・連歌『風庵懐旧千句』(1679年)
・俳諧『梅翁宗因発句集』素外編(1681年)