今日は、平成時代の1998年(平成10)に、小説家・ノンフィクション作家山本茂実の亡くなった日です。
山本茂実(やまもと しげみ)は、大正時代の1917年(大正6)2月20日に、長野県東筑摩郡松本村(現在の松本市並柳)の農家の長男として生まれました。松本青年学校に通いましたが、召集され近衛歩兵第3連隊に入ります。
太平洋戦争後は、青年運動に参加し、1947年(昭和22)に書いた処女作『生き抜く悩み 哲学随想録』が大ヒットとなりました。翌年上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となり、「葦会」を組織して、雑誌「葦」を創刊します。
1952年(昭和27)総合雑誌「潮」を創刊し、編集長となって、『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年) 、『結婚と云う宿命について』(1956年)、『庶民の常識』(1956年)を出版するなど、働く若者達のサークル活動に影響を与えます。しかし、葦出版社の経営状態が悪化し、1960年(昭和35)に雑誌「葦」が廃刊となって編集長としての地位を失いました。
以後は、フリーライターとして活動し、1968年(昭和43)にノンフィクション『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を発表、250万部に達するベストセラーとなります。この作品は、1979年(昭和54)に映画化(監督:山本薩夫、主演:大竹しのぶ)されて大ヒット(配給収入14億円)し、テレビドラマ化もされました。1980年(昭和55)には、『続 あゝ野麦峠』も出版され、1982年(昭和57)には、同じ山本薩夫監督で、映画の続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も制作されています。
その後も、著作活動などを続けましたが、1998年(平成10)に、81歳で亡くなりました。尚、松本市歴史の里に「山本茂実記念館」が作られています。
〇『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』とは?
山本茂実著の飛騨地方から信州へ来た製糸工女のルポルタージュで、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、朝日新聞社から出版され、1972年(昭和47)には、新版が刊行されました。
明治時代前期から大正時代にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、長途野麦街道を徒歩で信州の製糸工場へ働きに行きました。まず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊し、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に、だいたい3泊4日の行程で至ったのです。
この旅は、1934年(昭和9)に国鉄高山線が開通するまで続きました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事したのです。
また、山本薩夫監督によって、1979年(昭和54)に映画化され、大きな反響を呼びました。続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年に同じく山本薩夫監督によって映画化されています。
〇山本茂実の主要な著書
・『生き抜く悩み 哲学随想録』(1948年)
・『救われざるの記』(1950年)
・『嵐の中の人生論』(1953年)
・『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年)
・『恋愛・結婚・家』(1955年)
・『愛・自由・生きること』(1955年)
・『結婚と云う宿命について』(1956年)
・『庶民の常識』(1956年)
・『苦しんでいるのはあなただけではない』(1959年)
・『松本連隊の最後』(1966年)
・『街道・風土と伝説の旅』(1966年)
・『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(1968年)
・『人間の出発 自らの何を期するか』(1969年)
・『根性教育の実践』(1969年)
・『私をささえた母の一言 貫く信念の座右銘』(1970年)
・『喜作新道 ある北アルプス哀史』(1971年)
・『高山祭 この絢爛たる飛騨哀史』(1976年)
・『塩の道・米の道』(1978年)
・『続 あゝ野麦峠』(1980年)
・『初めて知った生きている証』(1982年)
・『海に立つ墓標』(1982年)
・『日本青年は健在だった バングラデシュ紀行』(1985年)
・『山本茂実アフリカを行く』(1989年)
・『人生、幕引きは芸術である わが心の姨捨山』(1993年)
・『カチューシャ可愛や 中山晋平物語』(1994年)
山本茂実(やまもと しげみ)は、大正時代の1917年(大正6)2月20日に、長野県東筑摩郡松本村(現在の松本市並柳)の農家の長男として生まれました。松本青年学校に通いましたが、召集され近衛歩兵第3連隊に入ります。
太平洋戦争後は、青年運動に参加し、1947年(昭和22)に書いた処女作『生き抜く悩み 哲学随想録』が大ヒットとなりました。翌年上京し、早稲田大学文学部哲学科の聴講生となり、「葦会」を組織して、雑誌「葦」を創刊します。
1952年(昭和27)総合雑誌「潮」を創刊し、編集長となって、『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年) 、『結婚と云う宿命について』(1956年)、『庶民の常識』(1956年)を出版するなど、働く若者達のサークル活動に影響を与えます。しかし、葦出版社の経営状態が悪化し、1960年(昭和35)に雑誌「葦」が廃刊となって編集長としての地位を失いました。
以後は、フリーライターとして活動し、1968年(昭和43)にノンフィクション『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を発表、250万部に達するベストセラーとなります。この作品は、1979年(昭和54)に映画化(監督:山本薩夫、主演:大竹しのぶ)されて大ヒット(配給収入14億円)し、テレビドラマ化もされました。1980年(昭和55)には、『続 あゝ野麦峠』も出版され、1982年(昭和57)には、同じ山本薩夫監督で、映画の続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も制作されています。
その後も、著作活動などを続けましたが、1998年(平成10)に、81歳で亡くなりました。尚、松本市歴史の里に「山本茂実記念館」が作られています。
〇『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』とは?
山本茂実著の飛騨地方から信州へ来た製糸工女のルポルタージュで、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、朝日新聞社から出版され、1972年(昭和47)には、新版が刊行されました。
明治時代前期から大正時代にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、長途野麦街道を徒歩で信州の製糸工場へ働きに行きました。まず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊し、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に、だいたい3泊4日の行程で至ったのです。
この旅は、1934年(昭和9)に国鉄高山線が開通するまで続きました。工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きして、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事したのです。
また、山本薩夫監督によって、1979年(昭和54)に映画化され、大きな反響を呼びました。続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年に同じく山本薩夫監督によって映画化されています。
〇山本茂実の主要な著書
・『生き抜く悩み 哲学随想録』(1948年)
・『救われざるの記』(1950年)
・『嵐の中の人生論』(1953年)
・『愛と死の悩み 吾等いかに生くべきか(人生論 第2部)』(1954年)
・『恋愛・結婚・家』(1955年)
・『愛・自由・生きること』(1955年)
・『結婚と云う宿命について』(1956年)
・『庶民の常識』(1956年)
・『苦しんでいるのはあなただけではない』(1959年)
・『松本連隊の最後』(1966年)
・『街道・風土と伝説の旅』(1966年)
・『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(1968年)
・『人間の出発 自らの何を期するか』(1969年)
・『根性教育の実践』(1969年)
・『私をささえた母の一言 貫く信念の座右銘』(1970年)
・『喜作新道 ある北アルプス哀史』(1971年)
・『高山祭 この絢爛たる飛騨哀史』(1976年)
・『塩の道・米の道』(1978年)
・『続 あゝ野麦峠』(1980年)
・『初めて知った生きている証』(1982年)
・『海に立つ墓標』(1982年)
・『日本青年は健在だった バングラデシュ紀行』(1985年)
・『山本茂実アフリカを行く』(1989年)
・『人生、幕引きは芸術である わが心の姨捨山』(1993年)
・『カチューシャ可愛や 中山晋平物語』(1994年)