伊藤仁斎(いとう じんさい)は、1627年(寛永4年7月20日)に、京都堀川通勘解由小路北の商家の父・鶴屋七右衛門、母・那倍(なべ)の子としてに生まれましたが、幼名は源七、字は源佐、名は維(これえだ)と言いました。
京都の富裕な町人の子として、上流文化人の精神的影響を受けて育ちます。親族、姻族には、角倉了以、里村紹巴、本阿弥光悦、尾形光琳・乾山らがいました。その中で、儒学者を志しますが、青年期には独学で朱子の書を読み、敬斎と号します。
しかし、朱子学に疑問を抱くようになり、1655年(明暦元)には松下町に隠棲して陽明学から仏老の教えに入り、白骨観法を修め、1658年(万治元)には『仁説』を書いて、仁の本質は愛であるとして、号を仁斎と改めます。
孔孟の古義に溯る、いわゆる古義学に至り、1662年(寛文2)に家に戻って鶴屋七右衛門を襲名するとともに、私塾「古義堂」を開きました。
生涯出仕せず、日常の経験に立脚した倫理思想を説いて全国から門人を集めて3,000余人を有し、堀川学派と呼ばれるようになります。40歳を過ぎてから2度結婚し、その子東涯(とうがい)、梅宇(ばいう)、介亭(かいてい)、蘭嵎(らんぐう)の4男子は、家学を継承しました。
『語孟字義』、『童子問』、『論語古義』、『孟子古義』、『中庸発揮』などを著しましたが、1705年(宝永2年3月12日)に、京都堀川において、数え年79歳で亡くなっています。
〇伊藤仁斎の主要な著作
・『論語古義』
・『孟子古義』
・『語孟字義』
・『中庸発揮』
・『童子問』
・『大学定本』
・『古学先生文集・詩集』