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 今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、民政党斎藤孝夫が反軍演説(日中戦争の処理を厳しく追及)で議員除名された日です。
 この反軍演説は、1940年(昭和15年)2月2日に、第75帝国議会の衆議院本会議において、民政党からの代表質問で行ったもので、日中戦争(支那事変)に対する根本的な疑問と批判を提起し、米内光政首相を追及したものでした。
 1938年(昭和13年)末に当時の近衛文麿首相が表明した処理方針の持つ欺まん性を厳しく批判し、「東亜新秩序を唱える近衛声明で“支那事変”が解決できるというのは、現実を無視し聖戦の美名にかくれて国民的犠牲を閑却するものではないか、近く現れんとしている汪兆銘政権に、中国の将来を担うだけの力があるとは思われない、政府は国民精神総動員に巨額の費用を投じているが、国民にはこの事変の目的すらわからない」と述べて、政府が樹立工作を進める汪兆銘政権の統治能力に疑義を呈します。そして、「唯徒に聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却し」、国際正義・道義外交・共存共栄など雲を掴むような文字を列べ立てて国家百年の大計を誤ってはならない、と演説しました。
 これに対し、陸軍などが憤慨したため、小山松寿衆議院議長が職権で議事速記録から斎藤演説全体の3分の2程度、約1万字にも及ぶ、後半部分を削除します。しかし、新聞各紙の一部地域向けにこの演説が全文掲載され、外電でも配信されて、世間に知られることとなりました。
 斎藤は、懲罰委員会にかけられ、周囲からの議員辞職勧告に対して、「憲法の保障する言論自由の議会」での演説に対する速記録削除や自らの論旨を曲解した非難がもとで辞めるのは、「国民に対して忠なる所以ではない」と拒否しましたが、民政党は離党せざるを得なくなります。
 その後、同年3月7日の衆議院本会議において斎藤の除名処分が議決され、議員も辞めさせられることとなりました。

〇斎藤隆夫とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した弁護士・政治家です。明治時代前期の1870年(明治3年8月18日)に、兵庫県出石郡室埴村(現在の豊岡市)で生まれました。
 東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業し、渡米してエール大学大学院で公法・政治学を学び、帰国後弁護士を開業します。
 1912年(明治45)5月、郷里より国民党所属で衆議院議員に初当選し、以後13回当選しました。戦前は、立憲国民党・立憲同志会・憲政会・民政党に所属し、硬骨な自由主義者で雄弁家として知られ、浜口雄幸内閣で内務政務次官となり、第2次若槻礼次郎内閣の法制局長官を経て、斎藤実内閣では再び内務政務次官を務めます。
 昭和時代に入るとファシズムに抵抗する議会活動を展開し、1935年(昭和10)1月24日の陸軍パンフレット・軍事費偏重批判演説、翌年5月7日の二・二六事件に対する粛軍演説、1940年(昭和15)2月2日の日中戦争解決に関する反軍演説は特に有名となりました。
 反軍演説で、軍部を怒らせて懲罰に付され、民政党を離党せざるを得なくなり、同年3月7日に帝国議会からも議員除名されますが、1942年(昭和17)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の非推薦ながら最高点当選し、返り咲きます。
 太平洋戦争後は、日本進歩党を結成、第一次吉田内閣と片山内閣の国務大臣を務めましたが、1949年(昭和24)10月7日に東京において、79歳で亡くなりました。
 著作に『帝国憲法論』、『比較国会論』などがあります。