ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年02月

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 今日は、江戸時代後期の1784年(天明4)に、筑前志賀島で「漢倭奴國王印(金印)」が発見された日ですが、新暦では4月12日となります。
 この金印は、『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚』によると、志賀島の叶が崎というところで「水はけを良くしようと、水路を掘っていたら二人で動かせるほどの大石があり、金テコで石を動かすと光るものがあり、水で洗ってみるとそれが金印でした。」と書かれています。
 それを持ち帰って町家衆に見せたところ、大切なもののようだから大事に保管していなさいと言われ、10数日がたった時、急に那珂郡役所から発見したものを差し出すように指示があり、差し出したものでした。その時、天明4年(1784年)3月16日付で「甚兵衛の口上書」(原本は発見されていない)というものが提出されます。
 その金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は、印に隷書体で「漢委奴国王」の5字が3行に陰刻されていると考え、『後漢書』東夷伝の「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬をもってす。」という記述のある金印とはこれのことであると同定し、『金印弁』という鑑定書を書きました。
 博多聖福寺の仙崖和尚が1830年代に記した『志賀島小幅』には、「発見者は秀治と喜平」と記載されていて、現在ではこの2人が発見者ではないかと考えられています。また、代々志賀海神社の宮司をつとめた安曇家に伝世の『万暦家内年鑑』には、「志賀島小路町秀治、大石の下より金印を掘出す」と書かれていました。
 この金印は、黒田藩に保管され、明治維新後の廃藩置県で黒田家が東京へ転居した時、東京国立博物館に寄託されます。1892年(明治25)には、三宅米吉により、印文が「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、現在の福岡県那珂郡に比定されて、有力説となりました。
 1931年(昭和6)には、金印が「国宝保存法」に基づく国宝(旧国宝)に指定され、その測定を帝室博物館員入田整三がして、「総高七分四厘、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六匁」の結果を出しています。
 太平洋戦争後、「文化財保護法」に基づき、1954年(昭和29)に国宝に指定され、1966年(昭和41)に通商産業省工業技術院計量研究所で精密測定されましたが、印面一辺の平均2.347cm、鈕を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625立方cmとの結果が出されました。また、1994年(平成6)の蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、中国産の金が使われていると推定されています。
 一部に私印説、偽物説もありましたが、近年中国で発見された金印等との比較検討から、今日では真印であると考えられるようになりました。
 1978年(昭和53)の「福岡市美術館」の開設に際して、黒田家から福岡市に寄贈され、1990年(平成2)から「福岡市博物館」で保管・展示されるようになります。
 尚、金印出土地ははっきりしてきませんでしたが、推定地点に1923年(大正12)に「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立され、現在出土地付近は「金印公園」として整備されました。
 以下に、金印発掘に関する届け書『志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書』(全文)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇金印発掘に関する届け書『志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書』(全文)

 那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚
       
 私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御坐候ニ付、先月廿三日、右之溝形ヲ仕直シ可申迚岸を切落シ居候処、小キ石段々出候内弐人持程之石有之、かな手子ニ而堀除ケ申候之処、石之間ニ光候物有之ニ付、取上水ニ而ス々キ上見候処、金之印判之様成物ニ而御坐候、私共見申タル儀モ無御坐品ニ御坐候間、私兄喜兵衛以前奉公仕居申候福岡町家之方ヘ持参リ、喜兵衛 見セ申候へハ、大切成品之由被申候ニ付、其儘直シ置候処、昨十五日庄屋殿、右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何レ宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
                                      
 志賀島村百姓 甚兵衛 印

 天年四年三月十六日
 津田源次郎様
       御役所

 右甚兵衛申候通少モ相違無御坐候、右体之品掘出候ハ 不差置、速ニ可申出儀ニ御座坐候処うかと奉存、市中風説モ御坐候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御坐、奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下願、奉願上候、以上
         武蔵 印
 同年同月 日  組頭吉三
         同 勘蔵
               
 津田源次郎様
       御役所

<現代語訳>

 私が所有している田地が叶の崎という所にありまして、田の境界にある溝の水の流れが悪かったので、2月23日に、その溝の形を修復して、岸を切り落としていたところ、小さな石が徐々に出て来まして、二人で抱えなければならないほどの石がありました。これを金梃で掘って除くと、石の間に光るものを発見しました。それを取り上げて水ですすいでみましたところ、金の印判のような物でありました。私達は今まで見たことがないような品でありましたので、私の兄である喜兵衛が以前奉公していた福岡町の家衆の方ヘ持っていって、喜兵衛が見せましたならば、大切な品であるとのことでした。そのままにしていましたところ、3月15日に庄屋様が、右の品をさっそく御役所へ差し出すように申し付けられましたので、ただちに提出申しあげます。しかるべくお取り計らい下されますように、お願いいたします。以上

 志賀島村百姓 甚兵衛 印

 天年4年(1784年)3月16日
 津田源次郎様
       御役所

 右のように甚兵衛が申しましたところは、少しも相違のないところでございます。右のような品を掘り出しましたが、止めおくことをせず、すみやかに申し出るべきところであったものの、世間のうわさになるまで差し出さなかったのは、まったく考えが足らないことで言い訳もできず、恐れ入るばかりです。何分とも、しかるべくお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。以上
         武蔵 印
 同年同月 日  組頭吉三
         同 勘蔵

 津田源次郎様
       御役所
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 今日は、鎌倉時代の1239年(延応元)に、第82代の天皇後鳥羽天皇の亡くなった日ですが、新暦では3月28日となります。
 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期の1180年(治承4年7月14日)に、京都において、高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれましたが、名は尊成 (たかひら) と言いました。
 1183年(寿永2)に、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れます。その後、後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、翌年、神器のないままに即位式が実施され、天皇が二人いる状態となりました。1185年(文治元年)に、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も亡くなり、天皇重複は解消されます。
 1191年(建久2)に建久新制が宣下され、1192年(建久3)には、後白河法皇が亡くなり、天皇親政となりました。しかし、1198年(建久9)に土御門天皇に譲位し、上皇として以後三代にわたって院政を行なうようになります。
 一方、歌人としてもすぐれ、1200年(正治2)に、正治初度百首和歌を主宰し、1201年(建仁元)には、30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合を行わせました。また、1201年(建仁元)に和歌所を再興し、『新古今和歌集』の撰定に関わり、1205年(元久2)には完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催されています。
 1219年(建保7)に鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府側の混乱を見て取り、1221年(承久3)に北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みましたが失敗(承久の乱)しました。
 その結果、土御門・順徳の2上皇と共に配流となり、同年7月に出家して隠岐島へ流されます。帰京がかなわぬまま、18年を過ごし、歌集『詠五百首和歌』、『遠島御百首』、秀歌撰『時代不同歌合』などを残しましたが、1239年(延応元年2月22日)に、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて、数え年60歳で亡くなりました。

<代表的な短歌>
「人もをし人も恨めし味気(あじき)なく世を思ふゆえに物おもふ身は」(続後撰集・小倉百人一首)
「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」(新古今和歌集)
「見わたせば山もとかすむ水瀬川夕べは秋となにおもひけむ」(新古今和歌集)
「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」(新古今和歌集)
「われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ」(後鳥羽院御百首)

〇後鳥羽天皇の主要な著作

・日記『後鳥羽院宸記』
・『世俗浅深秘抄』
・歌集『後鳥羽院御集』
・歌集『詠五百首和歌』
・歌集『遠島御百首』
・歌学書『後鳥羽院御口伝』
・『無常講式』
・秀歌撰『時代不同歌合』

☆後鳥羽天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1180年(治承4年7月14日) 高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれる
・1183年(寿永2年7月25日) 木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れる
・1183年(寿永2年8月20日) 太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚する
・1184年(元暦元年7月28日) 神器のないままに即位式が実施される
・1185年(文治元年3月24日) 平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も入水して亡くなる
・1186年(文治2年) 九条兼実を摂政太政大臣とする
・1190年(建久元) 元服し、兼実の息女任子が入内して中宮となる(のち宜秋門院)
・1191年(建久2年3月) 建久新制が宣下される
・1192年(建久3年3月13日) 後白河法皇が亡くなり、天皇親政となる
・1192年(建久3年7月) 源頼朝が征夷大将軍となる
・1198年(建久9年1月11日) 土御門天皇に譲位し、上皇として院政を行なう
・1198年(建久9年8月) 最初の熊野御幸に出かける
・1199年(建久10年1月13日) 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなる
・1200年(正治2年7月) 正治初度百首和歌を主宰する
・1200年(正治2年8月以降) 正治第二度百首和歌を主宰する
・1201年(建仁元年6月) 30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合が行われる
・1201年(建仁元年7月) 和歌所を再興する
・1201年(建仁元年11月) 藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる
・1202年(建仁2年1月27日) 九条兼実が出家する
・1202年(建仁2年10月21日) 土御門(源)通親が急死する
・1205年(元久2年3月26日) 『新古今和歌集』完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催される
・1205年(元久2年12月) 藤原良経を摂政とする
・1205年(元久2年) 白河に最勝四天王院を造営する
・1219年(建保7年1月27日) 鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺される
・1221年(承久3年5月14日) 北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みたが失敗する(承久の乱)
・1221年(承久3年7月) 出家して隠岐島へ配流される
・1226年(嘉禄2) 自歌合を編み、家隆に判を請う
・1236年(嘉禎2) 遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く
・1239年(延応元年2月22日) 配流先の隠岐国海部郡刈田郷の御所で亡くなる

☆承久の乱とは?

 鎌倉時代の1221年(承久3)に、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことです。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されました。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立します。

☆『新古今和歌集』とは?

 後鳥羽上皇の院宣で藤原定家らが撰進し、鎌倉時代初期の1205年(元久2)頃に完成したと考えられる第八の勅撰和歌集(八代集の最後)で、二十巻あります。巻頭に仮名序、巻尾に真名序を付し、春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羇旅・恋・雑・神祇・釈教に分類され、「万葉集」以来の歴代歌人による1,979首(流布本)が収められ、優雅で華美な情趣、技巧的・象徴的手法が特色です。収載歌数は、多い方から西行(94首)、慈円(92首)、藤原良経(79首)、藤原俊成( 72首)、式子内親王(49首)、藤原定家(46首)となっています。
<収載されている代表的な歌>
「空はなほ 霞みもやらず 風さえて 雪げに曇る 春の夜の月」(藤原良経)
「志賀の浦や 遠ざかりゆく 浪間より 氷りて出づる 有明の月」(藤原家隆)
「帰るさの 物とや人の ながむらん 待つ夜ながらの 有明の月」(藤原定家)
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 今日は、平安時代初期の799年(延暦18)に、公卿・和気氏の祖和気清麻呂の亡くなった日ですが、新暦では4月4日となります。
 和気清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代の733年(天平5)に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)で、備前の豪族だった磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子として生まれましたが、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言いました。
 孝謙天皇の頃上京し、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得たとされます。764年(天平宝字8)に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し、765年(天平神護元)正月にその功労により勲六等の叙勲を受けました。同年3月には、藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓しています。
 翌年従五位下、次いで近衛将監に遷任され、特に封50戸を与えられました。769年(神護景雲3)に、称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき(宇佐八幡宮神託事件)に、広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され、「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏して道鏡の野心を退けます。
 そのため、道鏡の怒りを買って、名を別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)とかえられ、大隅国(現在の鹿児島県)に配流されました。
 770年(宝亀元)に称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元)には従四位下となります。その後、桓武天皇の下で、784年(延暦3)に長岡造京の功により従四位上、796年(延暦15)には平安京造営の功により、従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇りました。
 一方、吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』も奏上しています。しかし、799年(延暦18年2月21日)に、京都において数え年67歳で亡くなりました。
 死後、即日正三位を贈られ、遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてられています。
 以下に、宇佐八幡宮神託事件について書かれた、『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条を掲載しておきますのでご参照下さい。

〇『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条(注:宇佐八幡宮神託事件)

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。

【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
 (上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

☆和気清麻呂関係略年表(日付は旧暦です)

・733年(天平5) 備前国藤野郡で、豪族だった磐梨別乎麻呂の子として生まれる
・764年(天平宝字8) 藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し功を立てる
・765年(天平神護元)1月7日 その功労により勲六等の叙勲を受ける
・765年(天平神護元)3月13日 藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓する
・766年(天平神護2)11月5日 従五位下となる
・769年(神護景雲3)5月28日 吉備藤野和気真人から輔治能真人に改姓する
・769年(神護景雲3)7月11日 宇佐八幡宮神託事件で宇佐八幡宮に派遣され神託を受ける
・769年(神護景雲3)7月21日 都に帰り着き、神託を御所へ報告して道鏡の野心を退ける
・769年(神護景雲3)8月19日 因幡員外介となる
・769年(神護景雲3)9月25日 大隅国へ配流される
・770年(神護景雲4)8月4日 道鏡を寵愛していた称徳天皇が崩御する
・770年(神護景雲4)9月6日 光仁天皇により大隅国から呼び戻されて入京を許される
・771年(宝亀2)3月29日 従五位下に復位する
・771年(宝亀2)9月16日 播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰する
・781年(天応元)4月3日 桓武天皇が即位する
・781年(天応元)11月18日 従四位下となる
・784年(延暦3)12月2日 長岡造京の功により従四位上となる
・785年(延暦4) 神崎川と淀川を直結させる工事を行い、大阪湾から長岡京方面への物流路を確保する
・788年(延暦7) 大和川を大阪湾に直接流入させて水害を防ぐ開削工事を行ったが、費用が嵩んで失敗する
・790年(延暦9)2月27日 正四位下となる
・793年(延暦12) 桓武天皇の遊猟の際、山背国葛野郡の地を藤原小黒麻呂らに調査させ、平安京造営に着手する
・796年(延暦15) 平安京造営の功により、従三位に叙せられ、公卿の地位に昇る
・798年(延暦17) 致仕を願い出たが許されなかった
・799年(延暦18)2月21日 京都において数え年67歳で亡くなり、正三位を追贈される

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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、秋田県の第一次能代大火で、2,237棟が焼失した日です。
 前日夜半から西方からの強風が吹き始め、平均13m/s、最大18m/sにも及ぶようになりました。日付を超えた0時35分頃、市街西部の清助町新道の木工所から出火し、ポンプ車3台が出動、一端鎮火しかかった時、別の木工所の柾葺き屋根に飛び火し、延焼します。
 火の回りが早く、3台のポンプ車では手が回らず、近隣から消防車15台が駆け付けたものの、火勢が強く次々と延焼し、ようやく午前8時頃までには鎮火しました。
 これによる被害は、死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟(住家1,295棟、非住家942棟)、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名にのぼり、当時の市街地のおよそ42%に達するものとなります。市役所をはじめ、警察署(能代市警察署、山本地区警察署)・裁判所・郵便局・営林署・食糧公団・信用組合・勧業銀行支店・青森銀行支店・民生病院などが軒並み焼失し、被害総額は47億2,500万円にもなりました。
 火災後の復興では、都市計画が策定され、防火帯を意識した、幅員30mの道路や公園・緑化、消火施設の充実などが図られました。
 しかし、7年後の1956年(昭和31)3月20日に、再び第二次能代大火が起き、約31.5haを焼失しています。この時の被害では、死者はありませんでしたが、負傷者194名、焼失家屋1,156戸、1,475棟、罹災世帯数1,248世帯、罹災人員6,087名に及び、被害総額も約30億円に達しました。

〇太平洋戦争後の日本の大火(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
 死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
 死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
 死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
 死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
 行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
 死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
 死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
 死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
 死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円
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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、大坂で大塩平八郎の乱が起きた日ですが、新暦では3月25日となります。
 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、大塩平八郎(元大坂東町奉行所与力・陽明学者)が、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した江戸幕府の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起した反乱でした。
 1828年(文政11)に九州大洪水が起き、断続的に天災による諸国異作が続き、1836年(天保7)には、天保の大飢饉となります。大坂でも餓死者が続出しましたが、大坂町奉行・跡部山城守良弼(老中・水野忠邦の実弟)は、なんら救済策を講じることなく、逆に大量の米を江戸へ回送(徳川家慶の新将軍就任の儀式用)したため、米を買占めた豪商らは暴利を博していました。
 東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられず、このような大坂町奉行諸役人と特権豪商らに対し誅伐を加え、隠匿されている米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意します。2ヶ月前から蔵書1,241部を金668両余りで売り払らって資金調達し、家族を離縁した上で、貧民救済や大砲などの火器・爆薬を整えました。
 ひそかに門弟の与力や同心、近辺の富農らとはかり、2,040字に及ぶ幕政批判の檄文を飛ばし、1837年(天保8年2月19日)に、「救民」の旗印を掲げて決起します。私塾「洗心洞」に集う門弟20数名と共に、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しましたが、一党は約300人となりました。
 豪商宅を襲って金穀を奪ったり、放火したりしましたが、幕府方によって半日で鎮圧されます。しかし、兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼き、約7万人ほどが焼け出され、焼死者は270人以上にのぼり、「大塩焼け」と呼ばれる大火災となりました。反乱側は18人が死亡、大塩平八郎は約40日後、隠れ家で見つかり、自害しますが、多くが捕縛され、重罪(死罪33人、遠島4人ほか)に問われます。
 その後、越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後三原の一揆、摂津能勢の山田屋大助の騒動など、各地に暴動が続きました。
 以下に、この時の「大塩平八郎の檄文」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇大塩平八郎の檄文 1837年(天保8年2月19日)

 天より被下候村々小前[1]のものに至迄へ
 四海困窮[2]致候者永禄[3]永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、東照神君[4]も「鰥寡孤独[5]におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政[6]の基」と被仰置侯。然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢[7]とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中[8]の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分[9]にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表[10]より諸国一同、右之風儀に落入、
 天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄[11]を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前[1]百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王[12]武王[13]の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居[14]いたし候処、此節米価弥高直[15]に相成、大阪の奉行並諸役人、万物一体の仁[16]を忘れ、得手勝手[17]の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、天子御在所の京都にては、廻米[18]の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民[19]計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分[9]にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味[20]とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚屋[21]茶屋[22]へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者[23]を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛[24]も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民[25]を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人[26]の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居[14]の我等、もはや堪忍難成、湯武[27]之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し[28]、此度有志のものと申合、下民[25]を苦しめ候諸役人を先誅伐[29]いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮[30]におよび可申候間、右之者共穴蔵[31]に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷[32]内に置候俸米、夫々分散配当[33]いたし遣候間、摂河泉播[34]之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋もの[35]えは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭[36]、一刻も早く、大阪へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台[37]の金粟[38]を下民[24]え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興神武帝御政道之通[39]、寛仁大度[40]の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海[41]万民、いつ迄も、天恩[42]を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜[43]、天照皇太神之時代[44]に復し難くとも、中興の気象[45]に、恢復とて、立戻し可申候。
 此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大阪より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕[46]、朱全忠[47]之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰[48]之神鑑[49]にある事にて、詰る所は、湯武[27]、漢高祖[50]、明太祖[51]、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。
 但し、此書付、小前[1]之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。
 奉天命致天討候。

 天保八丁酉年 月 日  某
  摂河泉播村々
  庄屋年寄百姓並小前[1]百姓共え

  『大日本思想全集』第十六巻(昭和6年刊行)より 

【注釈】
[1]小前:こまえ=細民、貧民。
[2]四海困窮:しかいこんきゅう=世の中の人々が貧乏で生活に困ること。
[3]永禄:てんろく=天の恵み。
[4]東昭神君:とうしょうしんくん=江戸幕府初代将軍徳川家康の死後の敬称。
[5]鰥寡孤独:かんかこどく=身寄りもなく寂しいさま。また、その人のこと。『孟子』梁恵王下編にある。
[6]仁政:じんせい=『孟子』離婁編に、「堯舜の道も、仁政をいざれば天下を平らかに治むることわず」とある。
[7]驕奢:きょうしゃ=奢侈にふけること。おごっていてぜいたくなこと。また、そのさま。
[8]奥向女中:おくむきじょちゅう=大名の妻が居住している部屋を「奥向」といい当主以外の男子は立ち入り禁制であった。そこに勤務する女性たち。
[9]拙き身分:つたなきみぶん=未熟者。
[10]江戸表:えどおもて=政治・文化の中心である江戸を、地方から指していう言葉。
[11]賞罰の柄:しょうばつのへい=恩賞を与え懲罰を下す君主の権限。
[12]湯王:とうおう=殷の湯王のことで、民を愛することで知られ、夏の桀王の暴虐を討つて伊尹と共にこれを亡ぼす。
[13]武王:ぶおう=周の武王のことで、暴虐を極めた殷の紂王を討ち亡ぼし、善政を施した。
[14]蟄居:ちっきょ=家に閉じこもっていること。
[15]高直:こうじき=高値。
[16]仁:じん=儒教の考え方の基本である仁愛のこと。すべてのものをいつくしむ心。
[17]得手勝手:えてかって=自分勝手。好き勝手。
[18]廻来:かいまい=米の廻送。
[19]遊民:ゆうみん=仕事をせずに遊んでいる人。ここでは、悪徳商人や高利貸しのこと。
[20]膏梁の味:こうりょうのあじ=膏はあぶらののった肉、梁は米の飯。併せて美食のこと。
[21]揚屋:あげや=揚屋は遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家。
[22]茶屋:ちゃや=客に飲食遊興させることを業とする家。
[23]かわら者:かわらもの=河原者。役者。
[24]紂王長夜の酒盛:ちゅうおうぢょうやのさかもり=殷朝最後の王である紂王が、夜毎に美女を侍らせ酒宴したという故事。
[25]下民:かみん=貧しい人々。
[26]天道聖人:てんどうせいじん=儒学の四書の1つ、『中庸』の中の言葉。誠を目的とする天の道に辿り着いた昔の聖人たち。
[27]湯武:とうぶ=湯王と武王。
[28]血族の禍を犯し:けつぞくのわざわいをおかし=罪が一族に及ぶことをかえりみず。
[29]誅伐:ちゅうばつ=罪を責めて討つこと。
[30]誅戮:ちゅうりく=罪を責めて殺すこと。
[31]穴蔵:あなぐら=地下式倉庫。
[32]蔵屋敷:くらやしき=諸大名が米や国産物を売りさばくために設けた倉庫施設。
[33]配当:はいとう=分配。
[34]摂河泉播:せっかせんばん=摂津・河内・和泉・播磨のこと。
[35]難渋もの:なんじゅうもの=生活の苦しい者。生活困窮者。
[36]里数を不厭:りすうをいとわず=遠近を問わず、どこからでも。
[37]鉅橋鹿台:きょきょうろくだい=殷の紂王が財物を入れた倉。
[38]金粟:きんぞく=金銭や粟(食糧)。
[39]中興神武帝御政道の通り:ちゅうこうじんむごせいどうのとおり=神代の衰微を神武天皇が中興したように。
[40]寛仁大度:かんじんたいど=寛大で情け深いこと。
[41]四海:しかい=国中。
[42]天恩:てんおん=天のめぐみ。
[43]尭舜:ぎょうしゅん=中国古代の理想的時代。
[44]天照皇太神の時代:あまてらすこうたいじんのじだい=天照大神の時代。いわゆる神代の時代。
[45]中興の気象:ちゅうこうのきしょう=神武天皇が中興した時代。
[46]劉裕:りゅうゆう=武帝のこと。南朝の宋の初代皇帝(高祖)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は「劉宋」と称されている。
[47]朱全忠:しゅぜんちゅう=五代後梁の初代皇帝(太祖)。
[48]日月星辰:じつげつせいしん=太陽、月、星を総称した天空を辰(しん)という。
[49]神鑑:しんかん=すぐれためきき。霊妙な鑑識。
[50]漢高祖:かんこうそ=前漢の初代皇帝(在位前202~前195)劉邦のこと。
[51]明太祖:みんたいそ=明の初代皇帝(在位1368~1398)朱元璋のこと。

<現代語訳>

天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

 世の中の人々が貧乏で生活に困るようでは、天の恵みも途絶えるであろう。政治を担当するにはふさわしくない器の小さい人に国を治めさせておけば、災害が次々と発生してしまうと、昔の聖人は、深く天下後世の人の君となるもの、人の臣となるものに誡められたところである。
 徳川家康公も「身寄りもなく寂しい者に、もっとも憐れみを加えられることこそ、仁政の基本である」と言われた。ところが、これまでの240~50年もの間、戦乱はなかったものの、しだいに上の位に立つ者が、奢侈にふけり、おごりを極め、大切な政治にたずさわる諸役人は、公然と賄賂を贈ったり、賄賂を受け取ったりしている。地位の高い家に女を送り込んで、道徳も仁義も知らない未熟者であっても、立身して重役に昇進し、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その支配地の民百姓達へは過分の御用金を申し付けている。これまでの年貢・賦役に苦しんできた上に、右のように、無理無体を申し渡され、次々に出費がかさみ、ついには天下の困窮となった。このため、上を怨まない者がいない状態となってしまつたのだが、江戸をはじめ全国すべてがこうした有様に落入っている。、
 天皇は、足利時代以来、とりわけ隠居同然に追いやられ、恩賞を与え懲罰を下す君主の権限をも喪失し、下々の者がその怨みをどこかへ告げようとしても、訴へ出る方法がないほどに乱れている。このような人々の怨みが天に通じ、近年、地震、火災、山崩れ、洪水等の各種の自然災害が頻発するようになった。ついに、五穀が実らず飢饉になってしまったのである。これは皆、天が深く誡めている有難い啓示ではあるが、一向に上層部の人々は気付かず、なおも、器が小さく奸計を巡らす者どもが大切な政治を執り行ない、ただ下々の人民を悩まして、米や金銭を取り立てる手段ばかりにかかわっている。事実、貧しき農民達の苦難を、私たちのようなものは、陰ながら常々察して、為政者どもを深く恨んではいたが、殷の湯王や周の武王のような権勢も地位もなく、孔子や孟子のような道徳もなければ、いたずらに家に閉じこもっているばかりであった、ところがこの頃米価がますます高値になり、大坂町奉行所ならびに諸役人どもは万物一体の仁を忘れ、好き勝手な政治をして、江戸への米の廻送の手はずはするが、天皇がおられる京都へは米の廻送を手配しないばかりでなく、五升・一斗程度のわずかな米を大坂に買ひにくる者すらこれを召捕らえるような事をしている。昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したというが、それと同様に言語道断の話だ、どこの土地であっても人民は徳川家御支配の者に相違ないのに、それをこのように差別を付けるのは、まったく奉行等に仁がないからである。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の有閑層(悪徳商人や高利貸し等)ばかりを大切に考えているのは、前にも言ったように、道徳や仁義もない未熟者のするところで、たいへん厚かましく、不届きなことである。また三都の内で大坂の金持どもは、日ごろから諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀ならびに扶持米を莫大にかすめ取っていて、今までにないほどの有福な暮しをしている。彼等は町人の身分でありながら、大名家の用人格等に扱われ、または自分の田畑新田などをおびただしく所有し、何不足なく暮らし、近年の天災、天罰を見ながら畏れもせず、餓死する貧乏人や乞食をあえて救おうともせず、自分自身は山海の珍味など結構なものを食し、妾の家等へ入りびたり、あるいは揚屋や茶屋へ大名の家来を誘引して行く、高価な酒を湯水を呑むように振舞い、この難渋の時期に絹の着物を着て、役者を妓女と共に迎えて、普段と変わらない様に遊楽に耽るのは、どういうことであろうか。殷朝最後の王である紂王が、夜毎に美女を侍らせ酒宴したという故事と同様、そのところの奉行諸役人は、手にした権力をもってこのような者共を取りしまり、貧しい人々を救うことも出来ない、日々堂島の相場にのめり込んでいる。まったく禄盗人であり、誠を目的とする天の道に辿り着いた昔の聖人たちの心に叶わず、許しがたきことである。私達家に閉じこもっていた者共は、もはや我慢できなくなった。湯王や武王のような威勢、孔子や孟子のような仁徳がなくても、天下の為めと思って、罪が一族に及ぶことをかえりみず、このたび有志の者と申し合せて、貧しい人々を苦しめる諸役人をまず罪を責めて討ち、続いて驕りに耽っている大阪市中の金持共の罪を責めて殺すことにした。そして右の者共が地下式倉庫に蓄えていた金銀銭や蔵屋敷に保管されている扶持米を運び出して、人々に分配配当するので、摂津・河内・和泉・播磨の国々の者で田畑を所有しない者、たとえ所持していても父母や妻子など家族を養うのが大変な生活困窮者へは、右の金や米を分配するから、何時でも大坂市中で騒動が起ったと聞き伝えたならば、遠近を問わず、どこからでも一刻も早く大坂へ向け馳せ参じて来てほしい、それらの者へ右の金や米を分配するものである。これは殷の紂王が財物を入れた倉の金銭や粟(食糧)を民に与えたという武王の故事にならうもので、当面の飢饉の難儀を救いたい。もしまた、その内優れた人物・才能の者があれば、それぞれ取り立て、無法者たちの征伐の軍役にも参加していただきたい。決して一揆蜂起の企てとは違い、徐々に年貢や賦役に至るまですべてを少なくし、かつて神代の衰微を神武天皇が中興したように、寛大で情け深い取扱いにいたし遣、日ごろからのおごっていてぜいたくで放埒な風俗をすっかり改め、質素に立ち戻り、国中のすべての人が、いつまでも、天のめぐみを有難く思い、父母妻子を養い、生きながらの地獄から救われ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、尭舜のような中国古代の理想的時代、神代の時代に戻すことは難しくても、神武天皇が中興した時代に回復して、立ち戻したいのである。
 この書き付けを村々へ一々知らせたいとは思うのだが、数が多いことでもあり、最寄りの人家の多い大村の神殿へ貼り付けて置き、大阪から巡視しにくる役人共に知らせないように心懸け、早々に村々へ触れ回ってほしい。万一番人共が目をつけ、大坂の天王寺・天満・鳶田・道頓堀の四ヶ所の手先共へ注進するようであったならば、遠慮なくそれぞれ申し合せて番人を残らず打ち殺すべきである。もし右騒動が起ったことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかったり、または遅参ずるようなことがあっては、金持ちの金は、皆火中の灰になり、天下の宝を取り失うことになる。後になって我等を恨み、宝を捨てる無道者と陰口をたたかないでほしい。そのため一同へ触れ知らせるのである。これまで、地頭や村役たちに保管されている税に関するすべての記録や帳面の類いをすべて引き破り焼き捨てるべきである。是は深い思慮のあることで、将来にわたって人々を困窮させないために為せるものである。しかしながら、この度の蜂起は、日本の平将門、明智光秀、中国の武帝(南朝の宋の初代皇帝)、朱全忠(後梁の初代皇帝)の謀叛に似ているという者もきっと有るのも無理からぬ道理ではあるが、私たち一同、天下国家を奪い取ろうという欲念から事を起こしたのでは決してなく、月や太陽、星などの天の動きの摂理に基づいた霊妙な鑑識によるものである。つまる所は、湯王と武王、前漢の初代皇帝(劉邦)、明の初代皇帝(朱元璋)が、民を弔い、悪い支配者を征伐して、天誅を執行したのと同じように、私たちがなにをするかを、終始見定めていただきたい。
 但し、この書付は貧しき人々へは道場坊主あるいは医師等によりとくと読み聞かせられたい。もし、庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分だけ読んで隠しておいたならば、追って必ずその罪が追及されるであろう。
 ここに、天命を受けて天誅を下す行為に打って出る。

 天保八丁酉年(1837年) 月 日        某
  摂津・河内・和泉・播磨の村々
   庄屋年寄百姓ならびに貧民百姓たちへ
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