ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年02月

イメージ 1

 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、豊臣秀吉により茶人千利休が自刃させらけた日ですが、新暦では4月21日となります。
 千利休(せん の りきゅう)は、戦国時代の1522年(大永2)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれた(1521年生誕説あり)とされますが、幼名は田中与四郎と言いました。
 初め茶の湯を北向道陳に学び、10歳代で武野紹鴎に師事しましたが、19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。1544年(天文13)に、松屋久政らを招いて茶会を開いた記録が残され、茶人としての才能をあらわしました。
 1568年(永禄11)に織田信長が上洛し、翌年以降堺を直轄地としていく過程で、関わりをもつようになります。1574年(天正2)には、織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれ、翌年には、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受けました。
 1582年(天正10)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉に仕えるようになります。翌年には、秀吉の依頼て茶室待庵を完成させ、近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めました。
 1585年(天正13)に、秀吉が禁中茶会を催した際に、正親町天皇に茶を献じて、利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立、同年に黄金の茶室を設計、1587年(天正15)には、北野大茶湯を主管します。その中で、村田珠光以来の侘び茶を大成、茶会の形式、点前作法などに創意工夫を施し、織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子を育てました。
 1590年(天正18)には秀吉の小田原攻略に従軍しますが、翌年に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受けて堺に蟄居させられます。そして、1591年(天正19年2月28日)に京都の聚楽屋敷内において、数え年70歳で切腹させられました。
 その後、利休の茶道の流れは3世宗旦から分かれた表千家、裏千家、武者小路千家の3千家として今日に伝えられています。

〇千利休関係略年表(日付は旧暦です)

・1522年(大永2年) 堺の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれる
・1544年(天文13年) 奈良の塗師松屋久政らを招いて茶会を開く
・1574年(天正2年3月) 織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受ける
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変及び山崎の戦いの後は豊臣秀吉に仕える
・1582年(天正10年8月) 秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられる
・1583年(天正11年3月) 茶室待庵(現存する利休作の唯一の茶室)を完成させる
・1583年(天正11年5月) 秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤める
・1584年(天正12年) 秀吉が築城した大坂城内に二畳の茶室を作る
・1585年(天正13年) 秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立
・1587年(天正15年) 北野大茶湯を主管する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原攻略に従軍する
・1591年(天正19) 利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受け堺に蟄居させられる
・1591年(天正19年2月28日) 秀吉により自刃させられる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園した日です。
 小石川植物園(こいしがわしょくぶつえん)は、正式には、「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」と言い、1684年(貞享元)に江戸幕府が江戸小石川に設けた御薬園が元になっていました。1875年(明治8)2月27日に、文部省の附属となり、小石川植物園とよばれるようになりましたが、東京大学の付属施設としての開園は、1877年(明治10)です。
 1897年(明治30)には、理学部植物学教室が植物園内に移転し、植物園と一体となり植物学の研究・教育が進められました。しかし、1923年(大正12)の関東大震災時に風致が大幅に損なわれ、太平洋戦争時にも大きな被害を受けています。
 現在の面積は16.1588haで、園内には約1,400種の樹木が植栽されているほか、温室では熱帯・亜熱帯の植物も栽培されてきました。有料で一般開放されて都民の憩いの場ともなり、植物園本館には植物標本約70万点、植物学関連図書約2万冊があって、植物研究に活用されています。
 また、栃木県日光市には、1902年(明治35)に設立された「日光分園」(面積10,485ha)があり、東京では栽培の難しい山地植物に関する研究・教育が行われてきました。
 尚、2012年(平成24)に、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定されています。

〇植物園とは?

 広辞苑によると、「植物学の進歩・向上及び植物に関する知識の普及に資するために設備せられた植物の培養所。」となっています。日本最古の植物園は、「小石川植物園」(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で、1684年(貞享元)に江戸幕府が江戸小石川に設けた御薬園が元になっていました。また、「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション植物園」は、1886年(明治19)に札幌農学校附属植物園として設立されたものです。日本では現在、日本植物園協会に加盟しているものだけでも、113園(2017年現在)があります。

☆日本の主要な植物園一覧(日本植物園協会加盟施設)

<北海道>
・北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園(北海道札幌市中央区)
・札幌市百合が原緑のセンター(北海道札幌市北区)
・札幌市豊平公園緑のセンター(北海道札幌市豊平区)
・札幌市平岡樹芸センター(北海道札幌市清田区)
・函館市熱帯植物園(北海道函館市)

<東北>
・能代エナジアムパーク(秋田県能代市)
・仙台市野草園(宮城県仙台市太白区)
・東北大学植物園(宮城県仙台市青葉区)
・山形市野草園(山形県山形市)

<関東>
・とちぎ花センター(栃木県栃木市)
・ぐんまフラワーパーク(群馬県前橋市)
・水戸市植物公園(茨城県水戸市)
・森林総合研究所樹木園(茨城県つくば市)
・筑波実験植物園(茨城県つくば市)
・茨城県植物園(茨城県那珂市)
・千葉県立中央博物館生態園(千葉県千葉市中央区)
・東京大学大学院農学生命科学研究科附属緑地植物実験所(千葉県千葉市花見川区)
・清水公園(千葉県野田市)
・川口市立グリーンセンター(埼玉県川口市)
・国営武蔵丘陵森林公園都市緑化植物園(埼玉県比企郡滑川町)
・東京大学大学院理学系研究科附属植物園(東京都文京区、栃木県日光市)
・板橋区立赤塚植物園(東京都板橋区)
・板橋区立熱帯環境植物館(東京都板橋区)
・新宿御苑(東京都新宿区)
・渋谷区ふれあい植物センター(東京都渋谷区)
・夢の島熱帯植物館(東京都江東区)
・神代植物公園(東京都調布市)
・多摩森林科学園(東京都八王子市)
・横浜市こども植物園(神奈川県横浜市南区)
・神奈川県立フラワーセンター大船植物園(神奈川県鎌倉市)
・箱根町立箱根湿生花園(神奈川県足柄下郡箱根町)

<中部>
・新潟県立植物園(新潟県新潟市秋葉区)
・富山県中央植物園(富山県富山市)
・氷見市海浜植物園(富山県氷見市)
・南砺市園芸植物園フローラルパーク(富山県南砺市)
・七尾フラワーパーク・のと蘭ノ国(石川県七尾市)
・福井総合植物園プラントピア(福井県丹生郡越前町)
・花フェスタ記念公園(岐阜県可児市)
・伊豆シャボテン公園(静岡県伊東市)
・浜松市フラワーパーク(静岡県浜松市西区)
・浜松市フルーツパーク(静岡県浜松市北区)
・碧南市農業活性化センターあおいパーク(愛知県碧南市)
・東山植物園(愛知県名古屋市千種区)
・名古屋市緑化センター(愛知県名古屋市昭和区)
・安城産業文化公園デンパーク(愛知県安城市)
・豊橋総合動植物公園(愛知県豊橋市)

<近畿>
・草津市立水生植物公園みずの森(滋賀県草津市)
・京都府立植物園(京都府京都市左京区)
・宇治市植物公園(京都府宇治市)
・大阪市立長居植物園(大阪府大阪市住吉区)
・咲くやこの花館(大阪府大阪市鶴見区)
・天王寺公園植物温室(大阪府大阪市天王寺区)
・大阪市立大学理学部附属植物園(大阪府交野市)
・大阪府立花の文化園(大阪府河内長野市)
・神戸市立森林植物園(兵庫県神戸市北区)
・六甲高山植物園(兵庫県神戸市灘区)
・尼崎市都市緑化植物園(兵庫県尼崎市)
・宝塚植物園(兵庫県宝塚市)
・兵庫県立フラワーセンター(兵庫県加西市)
・奇跡の星の植物館(兵庫県淡路市)
・和歌山県植物公園緑花センター(和歌山県岩出市)

<中国>
・鳥取県立とっとり花回廊(鳥取県西伯郡南部町)
・岡山市半田山植物園(岡山県岡山市北区)
・広島市植物公園(広島県広島市佐伯区)
・緑と花と彫刻の博物館(山口県宇部市)

<四国>
・高知県立牧野植物園(高知県高知市)

<九州>
・福岡市動植物園(福岡県福岡市中央区)
・長崎県亜熱帯植物園(サザンパーク野母崎)(長崎県長崎市)
・佐世保市亜熱帯動植物園(長崎県佐世保市)
・熊本市動植物園(熊本県熊本市)
・仙巌園自然植物園(鹿児島県鹿児島市)
・フラワーパークかごしま(鹿児島県指宿市)
・奄美アイランド植物園(鹿児島県奄美市)

<沖縄>
・熱帯・亜熱帯都市緑化植物園(沖縄県国頭郡本部町)
・ネオパークオキナワ[名護自然動植物公園](沖縄県名護市)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の生まれた日です。
 河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)は、愛媛県温泉郡千船町(現在の松山市千舟町)で、松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれましたが、本名は。秉五郎(へいごろう)と言いました。
 1888年(明治21)に伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)へ入学しましたが、同級生の高浜虚子とともに、帰郷した正岡子規に俳句の手ほどきをうけます。1893年(明治26)、虚子と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進み、翌年、仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転じたものの、俳句革新運動の開始を知り、中退します。
 上京して、虚子と共に子規庵に転がり込んで、俳句運動を助けました。1897年(明治30)に創刊された『ホトトギス』に俳句、俳論、写生文を発表し、虚子と並んで子規門の双璧と称されたものの、その句風は印象明瞭と評され、虚子とは異なります。
 1902年(明治35)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぎました。1903年(明治36+)頃から、定型・季語にとらわれない新傾向俳句へと進み始め、虚子と対立し袂を分つこととなります。
 1906年(明治39)より1911年(明治44)にかけて、2回にわたり三千里全国遍歴を行い、新傾向俳句を広めました。荻原井泉水創刊の『層雲』に参加しましたが、意見を異にして、1915年(大正4)に中塚一碧楼(いっぺきろう)と俳誌『海紅』を創刊しています。
 1919年(大正8)に大正日日新聞社会部長となり、翌年から2年ほど西欧各国を旅行しました。帰国後の1923年(大正12)に個人誌『碧(へき)』、1925年(大正14)には、改題して『三昧(さんまい)』を創刊します。
 1933年(昭和8)の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明し、1937年(昭和12)2月1日に東京において、63歳で亡くなりました。

<河東碧梧桐の代表的な句>

・「春寒し水田の上の根なし雲」
・「寺大破炭割る音の聞えけり」
・「春かけて旅すれば白ら紙の残りなくもう」
・「思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇」
・「蕎麦白き道すがらなり観音寺」
・「赤い椿白い椿と落ちにけり」
・「相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり」
・「雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む」
・「ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く」
・「曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ」

〇河東碧梧桐の主要な著作

・句集『春夏秋冬』子規・虚子との共選(1901~03年)
・評論『俳句評釈』(1903年)
・句集『続春夏秋冬』子規・虚子との共選(1906~07年)
・『日本俳句鈔第一集』(1909年)
・紀行『三千里』(1910年)
・『日本俳句鈔第二集』(1913年)
・紀行『続三千里』上巻(1914年)
・評論『新傾向句の研究』(1915年)
・句集『新傾向句集』(1915年)
・句集『碧梧桐句集』(1916年)
・句集『八年間』(1923年)
・『画人蕪村』(1926年)
・『子規の回想』(1944年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、室町時代の1415年(応永22)に、僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の生まれた日ですが、新暦では4月13日となります。
 蓮如(れんにょ)は、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。
 6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学し、次いで大谷の草庵で宗義をきわめました。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化します。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されました。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいます。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになりました。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみます。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げました。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいます。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなりました。

〇蓮如の主要な著作

・『正信偈大意』
・『御文(御文章)』
・『領解文』
・言行録『蓮如上人御一代記聞書』

☆蓮如関係略年表(日付は旧暦です)

・1415年(応永22年2月25日) 京都東山で本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれる
・1431年(永享3年) 中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学ぶ
・1447年(文安4年) 父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝する
・1449年(宝徳元年) 父と共に北陸から関東・東北を巡化する
・1457年(長禄元年) 父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ
・1465年(寛正6年1月8日) 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定する
・1465年(寛正6年1月9日) 比叡山延暦寺宗徒により本願寺を破却される
・1467年(文正2年3月) 延暦寺と和議を結ぶ
・1468年(応仁2年) 北陸・東国の諸国を巡錫する
・1469年(応仁3年) 三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立する
・1471年(文明3年4月上旬) 越前国吉崎に赴く
・1471年(文明3年7月27日) 越前国吉崎に道場(吉崎御坊)を建立する
・1475年(文明7年) 越前国吉崎を退去し、畿内に戻る
・1478年(文明10年1月29日) 山城国山科に坊舎の造営を開始する
・1483年(文明15年8月22日) 山城国山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成する
・1486年(文明18年) 紀伊に下向する
・1488年(長享2年6月9日) 加賀一向一揆が決起し、守護富樫政親を高尾城で自刃に追い込む
・1489年(延徳元年) 退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲る
・1496年(明応5年9月) 摂津国石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まう
・1499年(明応8年2月20日) 死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参する
・1499年(明応8年3月25日) 山科本願寺において数え年85歳で亡くなる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、小説家・脚本家・映画監督直木三十五の亡くなった日ですが、「南国忌」とも呼ばれています。
 直木三十五(なおき さんじゅうご)は、1891年(明治24)2月12日に、大阪府大阪市南区内安堂寺町(現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目)で生まれましたが、本名は植村宗一と言いました。桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、中学卒業後、一時、薬局勤務や小学校の代用教員を務めます。
 父の反対を押し切って上京し、1911年(明治44)に早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学しましたが、学費滞納により除籍されました。1916年(大正5)、同棲相手の仏子須磨子(のち結婚)との間に長女が誕生しますが、早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記など職を転々とします。
 1918年(大正7)にトルストイ全集刊行会(後の春秋社)を興し、翌年雑誌『主潮』を創刊するも、そこを離れて、冬夏社を興しますが、半年で倒産しました。1920年(大正9)には、里見弴、久米正雄、吉井勇らによって創刊された『人間』の編集担当や、三上於菟吉と創設した元泉社の経営を手掛けますが、いずれも失敗しています。
 1923年(大正12)の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たり、連合映画芸術家協会を設立しましたが長く続かず再度上京しました。1925年(大正14)に映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成し映画製作に関わりますが、赤字が続いて撤退します。
 1929年(昭和4)に『週刊朝日』に連載した『由比根元大殺記』で大衆作家として認められ、翌年に島津藩のお由良騒動を素材とした『南国太平記』を発表して文壇の流行児となりました。その後、時代小説から時局小説、現代小説など幅広く手掛け、大衆文芸を中心とした文芸評論や随筆も数多く執筆しました。
 しかし、1934年(昭和9)2月24日、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院において、43歳で亡くなり、命日は作品にちなんで「南国忌」とされます。
 尚、翌1935年(昭和10)に、友人の作家菊池寛の発案で、直木賞が設立されました。

〇直木三十五の主要な著作

・『新作仇討全集(しんさくあだうちぜんしゅう)』(1926年)
・『由比根元大殺記』(1929年)
・『黄門廻国記』(1929年)
・『南国太平記』(1930年)
・『関ヶ原』(1931年)
・『荒木又右衛門(あらきまたえもん)』(1930年)
・『楠木正成(くすのきまさしげ)』(1931年)
・『明暗三世相』(1932年)
・『源九郎義経(げんくろうよしつね)』(1933年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ