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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、豊臣秀吉により茶人千利休が自刃させらけた日ですが、新暦では4月21日となります。
 千利休(せん の りきゅう)は、戦国時代の1522年(大永2)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれた(1521年生誕説あり)とされますが、幼名は田中与四郎と言いました。
 初め茶の湯を北向道陳に学び、10歳代で武野紹鴎に師事しましたが、19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。1544年(天文13)に、松屋久政らを招いて茶会を開いた記録が残され、茶人としての才能をあらわしました。
 1568年(永禄11)に織田信長が上洛し、翌年以降堺を直轄地としていく過程で、関わりをもつようになります。1574年(天正2)には、織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれ、翌年には、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受けました。
 1582年(天正10)の本能寺の変で信長が横死すると、山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉に仕えるようになります。翌年には、秀吉の依頼て茶室待庵を完成させ、近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めました。
 1585年(天正13)に、秀吉が禁中茶会を催した際に、正親町天皇に茶を献じて、利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立、同年に黄金の茶室を設計、1587年(天正15)には、北野大茶湯を主管します。その中で、村田珠光以来の侘び茶を大成、茶会の形式、点前作法などに創意工夫を施し、織田有楽斎、細川忠興など数多くの弟子を育てました。
 1590年(天正18)には秀吉の小田原攻略に従軍しますが、翌年に利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受けて堺に蟄居させられます。そして、1591年(天正19年2月28日)に京都の聚楽屋敷内において、数え年70歳で切腹させられました。
 その後、利休の茶道の流れは3世宗旦から分かれた表千家、裏千家、武者小路千家の3千家として今日に伝えられています。

〇千利休関係略年表(日付は旧暦です)

・1522年(大永2年) 堺の町衆である魚問屋田中与兵衛の子として生まれる
・1544年(天文13年) 奈良の塗師松屋久政らを招いて茶会を開く
・1574年(天正2年3月) 織田信長が京都相国寺で開いた茶会に、他の堺の有力商人9人と共に招かれる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆掃討戦を行う信長のために、鉄砲玉を調達して送り、謝状を受ける
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変及び山崎の戦いの後は豊臣秀吉に仕える
・1582年(天正10年8月) 秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられる
・1583年(天正11年3月) 茶室待庵(現存する利休作の唯一の茶室)を完成させる
・1583年(天正11年5月) 秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤める
・1584年(天正12年) 秀吉が築城した大坂城内に二畳の茶室を作る
・1585年(天正13年) 秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立
・1587年(天正15年) 北野大茶湯を主管する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原攻略に従軍する
・1591年(天正19) 利休が寄進した大徳寺山門が政治問題化し、秀吉の怒りを受け堺に蟄居させられる
・1591年(天正19年2月28日) 秀吉により自刃させられる