この金印は、『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚』によると、志賀島の叶が崎というところで「水はけを良くしようと、水路を掘っていたら二人で動かせるほどの大石があり、金テコで石を動かすと光るものがあり、水で洗ってみるとそれが金印でした。」と書かれています。
それを持ち帰って町家衆に見せたところ、大切なもののようだから大事に保管していなさいと言われ、10数日がたった時、急に那珂郡役所から発見したものを差し出すように指示があり、差し出したものでした。その時、天明4年(1784年)3月16日付で「甚兵衛の口上書」(原本は発見されていない)というものが提出されます。
その金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は、印に隷書体で「漢委奴国王」の5字が3行に陰刻されていると考え、『後漢書』東夷伝の「建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬をもってす。」という記述のある金印とはこれのことであると同定し、『金印弁』という鑑定書を書きました。
博多聖福寺の仙崖和尚が1830年代に記した『志賀島小幅』には、「発見者は秀治と喜平」と記載されていて、現在ではこの2人が発見者ではないかと考えられています。また、代々志賀海神社の宮司をつとめた安曇家に伝世の『万暦家内年鑑』には、「志賀島小路町秀治、大石の下より金印を掘出す」と書かれていました。
この金印は、黒田藩に保管され、明治維新後の廃藩置県で黒田家が東京へ転居した時、東京国立博物館に寄託されます。1892年(明治25)には、三宅米吉により、印文が「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、現在の福岡県那珂郡に比定されて、有力説となりました。
1931年(昭和6)には、金印が「国宝保存法」に基づく国宝(旧国宝)に指定され、その測定を帝室博物館員入田整三がして、「総高七分四厘、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六匁」の結果を出しています。
太平洋戦争後、「文化財保護法」に基づき、1954年(昭和29)に国宝に指定され、1966年(昭和41)に通商産業省工業技術院計量研究所で精密測定されましたが、印面一辺の平均2.347cm、鈕を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625立方cmとの結果が出されました。また、1994年(平成6)の蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、中国産の金が使われていると推定されています。
一部に私印説、偽物説もありましたが、近年中国で発見された金印等との比較検討から、今日では真印であると考えられるようになりました。
1978年(昭和53)の「福岡市美術館」の開設に際して、黒田家から福岡市に寄贈され、1990年(平成2)から「福岡市博物館」で保管・展示されるようになります。
尚、金印出土地ははっきりしてきませんでしたが、推定地点に1923年(大正12)に「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立され、現在出土地付近は「金印公園」として整備されました。
以下に、金印発掘に関する届け書『志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書』(全文)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇金印発掘に関する届け書『志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書』(全文)
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚
私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御坐候ニ付、先月廿三日、右之溝形ヲ仕直シ可申迚岸を切落シ居候処、小キ石段々出候内弐人持程之石有之、かな手子ニ而堀除ケ申候之処、石之間ニ光候物有之ニ付、取上水ニ而ス々キ上見候処、金之印判之様成物ニ而御坐候、私共見申タル儀モ無御坐品ニ御坐候間、私兄喜兵衛以前奉公仕居申候福岡町家之方ヘ持参リ、喜兵衛 見セ申候へハ、大切成品之由被申候ニ付、其儘直シ置候処、昨十五日庄屋殿、右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何レ宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
志賀島村百姓 甚兵衛 印
天年四年三月十六日
津田源次郎様
御役所
右甚兵衛申候通少モ相違無御坐候、右体之品掘出候ハ 不差置、速ニ可申出儀ニ御座坐候処うかと奉存、市中風説モ御坐候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御坐、奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下願、奉願上候、以上
武蔵 印
同年同月 日 組頭吉三
同 勘蔵
津田源次郎様
御役所
<現代語訳>
私が所有している田地が叶の崎という所にありまして、田の境界にある溝の水の流れが悪かったので、2月23日に、その溝の形を修復して、岸を切り落としていたところ、小さな石が徐々に出て来まして、二人で抱えなければならないほどの石がありました。これを金梃で掘って除くと、石の間に光るものを発見しました。それを取り上げて水ですすいでみましたところ、金の印判のような物でありました。私達は今まで見たことがないような品でありましたので、私の兄である喜兵衛が以前奉公していた福岡町の家衆の方ヘ持っていって、喜兵衛が見せましたならば、大切な品であるとのことでした。そのままにしていましたところ、3月15日に庄屋様が、右の品をさっそく御役所へ差し出すように申し付けられましたので、ただちに提出申しあげます。しかるべくお取り計らい下されますように、お願いいたします。以上
志賀島村百姓 甚兵衛 印
天年4年(1784年)3月16日
津田源次郎様
御役所
右のように甚兵衛が申しましたところは、少しも相違のないところでございます。右のような品を掘り出しましたが、止めおくことをせず、すみやかに申し出るべきところであったものの、世間のうわさになるまで差し出さなかったのは、まったく考えが足らないことで言い訳もできず、恐れ入るばかりです。何分とも、しかるべくお取り計らい下さいますようお願い申し上げます。以上
武蔵 印
同年同月 日 組頭吉三
同 勘蔵
津田源次郎様
御役所