後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期の1180年(治承4年7月14日)に、京都において、高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれましたが、名は尊成 (たかひら) と言いました。
1183年(寿永2)に、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れます。その後、後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、翌年、神器のないままに即位式が実施され、天皇が二人いる状態となりました。1185年(文治元年)に、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も亡くなり、天皇重複は解消されます。
1191年(建久2)に建久新制が宣下され、1192年(建久3)には、後白河法皇が亡くなり、天皇親政となりました。しかし、1198年(建久9)に土御門天皇に譲位し、上皇として以後三代にわたって院政を行なうようになります。
一方、歌人としてもすぐれ、1200年(正治2)に、正治初度百首和歌を主宰し、1201年(建仁元)には、30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合を行わせました。また、1201年(建仁元)に和歌所を再興し、『新古今和歌集』の撰定に関わり、1205年(元久2)には完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催されています。
1219年(建保7)に鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府側の混乱を見て取り、1221年(承久3)に北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みましたが失敗(承久の乱)しました。
その結果、土御門・順徳の2上皇と共に配流となり、同年7月に出家して隠岐島へ流されます。帰京がかなわぬまま、18年を過ごし、歌集『詠五百首和歌』、『遠島御百首』、秀歌撰『時代不同歌合』などを残しましたが、1239年(延応元年2月22日)に、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて、数え年60歳で亡くなりました。
<代表的な短歌>
「人もをし人も恨めし味気(あじき)なく世を思ふゆえに物おもふ身は」(続後撰集・小倉百人一首)
「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」(新古今和歌集)
「見わたせば山もとかすむ水瀬川夕べは秋となにおもひけむ」(新古今和歌集)
「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」(新古今和歌集)
「われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ」(後鳥羽院御百首)
〇後鳥羽天皇の主要な著作
・日記『後鳥羽院宸記』
・『世俗浅深秘抄』
・歌集『後鳥羽院御集』
・歌集『詠五百首和歌』
・歌集『遠島御百首』
・歌学書『後鳥羽院御口伝』
・『無常講式』
・秀歌撰『時代不同歌合』
☆後鳥羽天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1180年(治承4年7月14日) 高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれる
・1183年(寿永2年7月25日) 木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れる
・1183年(寿永2年8月20日) 太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚する
・1184年(元暦元年7月28日) 神器のないままに即位式が実施される
・1185年(文治元年3月24日) 平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も入水して亡くなる
・1186年(文治2年) 九条兼実を摂政太政大臣とする
・1190年(建久元) 元服し、兼実の息女任子が入内して中宮となる(のち宜秋門院)
・1191年(建久2年3月) 建久新制が宣下される
・1192年(建久3年3月13日) 後白河法皇が亡くなり、天皇親政となる
・1192年(建久3年7月) 源頼朝が征夷大将軍となる
・1198年(建久9年1月11日) 土御門天皇に譲位し、上皇として院政を行なう
・1198年(建久9年8月) 最初の熊野御幸に出かける
・1199年(建久10年1月13日) 鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなる
・1200年(正治2年7月) 正治初度百首和歌を主宰する
・1200年(正治2年8月以降) 正治第二度百首和歌を主宰する
・1201年(建仁元年6月) 30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合が行われる
・1201年(建仁元年7月) 和歌所を再興する
・1201年(建仁元年11月) 藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる
・1202年(建仁2年1月27日) 九条兼実が出家する
・1202年(建仁2年10月21日) 土御門(源)通親が急死する
・1205年(元久2年3月26日) 『新古今和歌集』完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催される
・1205年(元久2年12月) 藤原良経を摂政とする
・1205年(元久2年) 白河に最勝四天王院を造営する
・1219年(建保7年1月27日) 鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺される
・1221年(承久3年5月14日) 北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みたが失敗する(承久の乱)
・1221年(承久3年7月) 出家して隠岐島へ配流される
・1226年(嘉禄2) 自歌合を編み、家隆に判を請う
・1236年(嘉禎2) 遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く
・1239年(延応元年2月22日) 配流先の隠岐国海部郡刈田郷の御所で亡くなる
☆承久の乱とは?
鎌倉時代の1221年(承久3)に、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことです。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されました。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立します。
☆『新古今和歌集』とは?
後鳥羽上皇の院宣で藤原定家らが撰進し、鎌倉時代初期の1205年(元久2)頃に完成したと考えられる第八の勅撰和歌集(八代集の最後)で、二十巻あります。巻頭に仮名序、巻尾に真名序を付し、春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羇旅・恋・雑・神祇・釈教に分類され、「万葉集」以来の歴代歌人による1,979首(流布本)が収められ、優雅で華美な情趣、技巧的・象徴的手法が特色です。収載歌数は、多い方から西行(94首)、慈円(92首)、藤原良経(79首)、藤原俊成( 72首)、式子内親王(49首)、藤原定家(46首)となっています。
<収載されている代表的な歌>
「空はなほ 霞みもやらず 風さえて 雪げに曇る 春の夜の月」(藤原良経)
「志賀の浦や 遠ざかりゆく 浪間より 氷りて出づる 有明の月」(藤原家隆)
「帰るさの 物とや人の ながむらん 待つ夜ながらの 有明の月」(藤原定家)