今日は、平安時代初期の799年(延暦18)に、公卿・和気氏の祖和気清麻呂の亡くなった日ですが、新暦では4月4日となります。
和気清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代の733年(天平5)に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町)で、備前の豪族だった磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子として生まれましたが、本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ)と言いました。
孝謙天皇の頃上京し、武官として右兵衛少尉、従六位上の官位を得たとされます。764年(天平宝字8)に起きた藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し、765年(天平神護元)正月にその功労により勲六等の叙勲を受けました。同年3月には、藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓しています。
翌年従五位下、次いで近衛将監に遷任され、特に封50戸を与えられました。769年(神護景雲3)に、称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき(宇佐八幡宮神託事件)に、広虫の代わりに宇佐八幡宮に派遣され、「日本では臣下が君主となった例はない。皇位には皇族を立てるべし」という神託を上奏して道鏡の野心を退けます。
そのため、道鏡の怒りを買って、名を別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)とかえられ、大隅国(現在の鹿児島県)に配流されました。
770年(宝亀元)に称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位すると、京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元)には従四位下となります。その後、桓武天皇の下で、784年(延暦3)に長岡造京の功により従四位上、796年(延暦15)には平安京造営の功により、従三位に叙せられ、ついに公卿の地位に昇りました。
一方、吏務に精通し、『民部省例』 (20巻) を撰し、『和氏譜』も奏上しています。しかし、799年(延暦18年2月21日)に、京都において数え年67歳で亡くなりました。
死後、即日正三位を贈られ、遺志によって、備前国の彼の私墾田 100町を百姓賑給田 (しんごうでん) として農民の厚生の料にあてられています。
以下に、宇佐八幡宮神託事件について書かれた、『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条を掲載しておきますのでご参照下さい。
〇『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条(注:宇佐八幡宮神託事件)
<原文>
神護景雲三年九月己丑条
(上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。
<読み下し文>
神護景雲三年九月己丑条
(上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。
【注釈】
[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。
<現代語訳>
神護景雲3年(769年)9月己丑条
(上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。
☆和気清麻呂関係略年表(日付は旧暦です)
・733年(天平5) 備前国藤野郡で、豪族だった磐梨別乎麻呂の子として生まれる
・764年(天平宝字8) 藤原仲麻呂の乱で、孝謙上皇側に参加し功を立てる
・765年(天平神護元)1月7日 その功労により勲六等の叙勲を受ける
・765年(天平神護元)3月13日 藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓する
・766年(天平神護2)11月5日 従五位下となる
・769年(神護景雲3)5月28日 吉備藤野和気真人から輔治能真人に改姓する
・769年(神護景雲3)7月11日 宇佐八幡宮神託事件で宇佐八幡宮に派遣され神託を受ける
・769年(神護景雲3)7月21日 都に帰り着き、神託を御所へ報告して道鏡の野心を退ける
・769年(神護景雲3)8月19日 因幡員外介となる
・769年(神護景雲3)9月25日 大隅国へ配流される
・770年(神護景雲4)8月4日 道鏡を寵愛していた称徳天皇が崩御する
・770年(神護景雲4)9月6日 光仁天皇により大隅国から呼び戻されて入京を許される
・771年(宝亀2)3月29日 従五位下に復位する
・771年(宝亀2)9月16日 播磨員外介に次いで豊前守に任ぜられて官界に復帰する
・781年(天応元)4月3日 桓武天皇が即位する
・781年(天応元)11月18日 従四位下となる
・784年(延暦3)12月2日 長岡造京の功により従四位上となる
・785年(延暦4) 神崎川と淀川を直結させる工事を行い、大阪湾から長岡京方面への物流路を確保する
・788年(延暦7) 大和川を大阪湾に直接流入させて水害を防ぐ開削工事を行ったが、費用が嵩んで失敗する
・790年(延暦9)2月27日 正四位下となる
・793年(延暦12) 桓武天皇の遊猟の際、山背国葛野郡の地を藤原小黒麻呂らに調査させ、平安京造営に着手する
・796年(延暦15) 平安京造営の功により、従三位に叙せられ、公卿の地位に昇る
・798年(延暦17) 致仕を願い出たが許されなかった
・799年(延暦18)2月21日 京都において数え年67歳で亡くなり、正三位を追贈される