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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、大坂で大塩平八郎の乱が起きた日ですが、新暦では3月25日となります。
 大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、大塩平八郎(元大坂東町奉行所与力・陽明学者)が、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した江戸幕府の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起した反乱でした。
 1828年(文政11)に九州大洪水が起き、断続的に天災による諸国異作が続き、1836年(天保7)には、天保の大飢饉となります。大坂でも餓死者が続出しましたが、大坂町奉行・跡部山城守良弼(老中・水野忠邦の実弟)は、なんら救済策を講じることなく、逆に大量の米を江戸へ回送(徳川家慶の新将軍就任の儀式用)したため、米を買占めた豪商らは暴利を博していました。
 東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられず、このような大坂町奉行諸役人と特権豪商らに対し誅伐を加え、隠匿されている米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意します。2ヶ月前から蔵書1,241部を金668両余りで売り払らって資金調達し、家族を離縁した上で、貧民救済や大砲などの火器・爆薬を整えました。
 ひそかに門弟の与力や同心、近辺の富農らとはかり、2,040字に及ぶ幕政批判の檄文を飛ばし、1837年(天保8年2月19日)に、「救民」の旗印を掲げて決起します。私塾「洗心洞」に集う門弟20数名と共に、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しましたが、一党は約300人となりました。
 豪商宅を襲って金穀を奪ったり、放火したりしましたが、幕府方によって半日で鎮圧されます。しかし、兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼き、約7万人ほどが焼け出され、焼死者は270人以上にのぼり、「大塩焼け」と呼ばれる大火災となりました。反乱側は18人が死亡、大塩平八郎は約40日後、隠れ家で見つかり、自害しますが、多くが捕縛され、重罪(死罪33人、遠島4人ほか)に問われます。
 その後、越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後三原の一揆、摂津能勢の山田屋大助の騒動など、各地に暴動が続きました。
 以下に、この時の「大塩平八郎の檄文」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇大塩平八郎の檄文 1837年(天保8年2月19日)

 天より被下候村々小前[1]のものに至迄へ
 四海困窮[2]致候者永禄[3]永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、東照神君[4]も「鰥寡孤独[5]におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政[6]の基」と被仰置侯。然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢[7]とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中[8]の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分[9]にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表[10]より諸国一同、右之風儀に落入、
 天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄[11]を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前[1]百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王[12]武王[13]の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居[14]いたし候処、此節米価弥高直[15]に相成、大阪の奉行並諸役人、万物一体の仁[16]を忘れ、得手勝手[17]の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、天子御在所の京都にては、廻米[18]の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民[19]計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分[9]にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味[20]とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚屋[21]茶屋[22]へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者[23]を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛[24]も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民[25]を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人[26]の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居[14]の我等、もはや堪忍難成、湯武[27]之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し[28]、此度有志のものと申合、下民[25]を苦しめ候諸役人を先誅伐[29]いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮[30]におよび可申候間、右之者共穴蔵[31]に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷[32]内に置候俸米、夫々分散配当[33]いたし遣候間、摂河泉播[34]之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋もの[35]えは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭[36]、一刻も早く、大阪へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台[37]の金粟[38]を下民[24]え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興神武帝御政道之通[39]、寛仁大度[40]の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海[41]万民、いつ迄も、天恩[42]を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜[43]、天照皇太神之時代[44]に復し難くとも、中興の気象[45]に、恢復とて、立戻し可申候。
 此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大阪より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕[46]、朱全忠[47]之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰[48]之神鑑[49]にある事にて、詰る所は、湯武[27]、漢高祖[50]、明太祖[51]、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。
 但し、此書付、小前[1]之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。
 奉天命致天討候。

 天保八丁酉年 月 日  某
  摂河泉播村々
  庄屋年寄百姓並小前[1]百姓共え

  『大日本思想全集』第十六巻(昭和6年刊行)より 

【注釈】
[1]小前:こまえ=細民、貧民。
[2]四海困窮:しかいこんきゅう=世の中の人々が貧乏で生活に困ること。
[3]永禄:てんろく=天の恵み。
[4]東昭神君:とうしょうしんくん=江戸幕府初代将軍徳川家康の死後の敬称。
[5]鰥寡孤独:かんかこどく=身寄りもなく寂しいさま。また、その人のこと。『孟子』梁恵王下編にある。
[6]仁政:じんせい=『孟子』離婁編に、「堯舜の道も、仁政をいざれば天下を平らかに治むることわず」とある。
[7]驕奢:きょうしゃ=奢侈にふけること。おごっていてぜいたくなこと。また、そのさま。
[8]奥向女中:おくむきじょちゅう=大名の妻が居住している部屋を「奥向」といい当主以外の男子は立ち入り禁制であった。そこに勤務する女性たち。
[9]拙き身分:つたなきみぶん=未熟者。
[10]江戸表:えどおもて=政治・文化の中心である江戸を、地方から指していう言葉。
[11]賞罰の柄:しょうばつのへい=恩賞を与え懲罰を下す君主の権限。
[12]湯王:とうおう=殷の湯王のことで、民を愛することで知られ、夏の桀王の暴虐を討つて伊尹と共にこれを亡ぼす。
[13]武王:ぶおう=周の武王のことで、暴虐を極めた殷の紂王を討ち亡ぼし、善政を施した。
[14]蟄居:ちっきょ=家に閉じこもっていること。
[15]高直:こうじき=高値。
[16]仁:じん=儒教の考え方の基本である仁愛のこと。すべてのものをいつくしむ心。
[17]得手勝手:えてかって=自分勝手。好き勝手。
[18]廻来:かいまい=米の廻送。
[19]遊民:ゆうみん=仕事をせずに遊んでいる人。ここでは、悪徳商人や高利貸しのこと。
[20]膏梁の味:こうりょうのあじ=膏はあぶらののった肉、梁は米の飯。併せて美食のこと。
[21]揚屋:あげや=揚屋は遊女屋から遊女を呼んで遊ぶ家。
[22]茶屋:ちゃや=客に飲食遊興させることを業とする家。
[23]かわら者:かわらもの=河原者。役者。
[24]紂王長夜の酒盛:ちゅうおうぢょうやのさかもり=殷朝最後の王である紂王が、夜毎に美女を侍らせ酒宴したという故事。
[25]下民:かみん=貧しい人々。
[26]天道聖人:てんどうせいじん=儒学の四書の1つ、『中庸』の中の言葉。誠を目的とする天の道に辿り着いた昔の聖人たち。
[27]湯武:とうぶ=湯王と武王。
[28]血族の禍を犯し:けつぞくのわざわいをおかし=罪が一族に及ぶことをかえりみず。
[29]誅伐:ちゅうばつ=罪を責めて討つこと。
[30]誅戮:ちゅうりく=罪を責めて殺すこと。
[31]穴蔵:あなぐら=地下式倉庫。
[32]蔵屋敷:くらやしき=諸大名が米や国産物を売りさばくために設けた倉庫施設。
[33]配当:はいとう=分配。
[34]摂河泉播:せっかせんばん=摂津・河内・和泉・播磨のこと。
[35]難渋もの:なんじゅうもの=生活の苦しい者。生活困窮者。
[36]里数を不厭:りすうをいとわず=遠近を問わず、どこからでも。
[37]鉅橋鹿台:きょきょうろくだい=殷の紂王が財物を入れた倉。
[38]金粟:きんぞく=金銭や粟(食糧)。
[39]中興神武帝御政道の通り:ちゅうこうじんむごせいどうのとおり=神代の衰微を神武天皇が中興したように。
[40]寛仁大度:かんじんたいど=寛大で情け深いこと。
[41]四海:しかい=国中。
[42]天恩:てんおん=天のめぐみ。
[43]尭舜:ぎょうしゅん=中国古代の理想的時代。
[44]天照皇太神の時代:あまてらすこうたいじんのじだい=天照大神の時代。いわゆる神代の時代。
[45]中興の気象:ちゅうこうのきしょう=神武天皇が中興した時代。
[46]劉裕:りゅうゆう=武帝のこと。南朝の宋の初代皇帝(高祖)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は「劉宋」と称されている。
[47]朱全忠:しゅぜんちゅう=五代後梁の初代皇帝(太祖)。
[48]日月星辰:じつげつせいしん=太陽、月、星を総称した天空を辰(しん)という。
[49]神鑑:しんかん=すぐれためきき。霊妙な鑑識。
[50]漢高祖:かんこうそ=前漢の初代皇帝(在位前202~前195)劉邦のこと。
[51]明太祖:みんたいそ=明の初代皇帝(在位1368~1398)朱元璋のこと。

<現代語訳>

天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

 世の中の人々が貧乏で生活に困るようでは、天の恵みも途絶えるであろう。政治を担当するにはふさわしくない器の小さい人に国を治めさせておけば、災害が次々と発生してしまうと、昔の聖人は、深く天下後世の人の君となるもの、人の臣となるものに誡められたところである。
 徳川家康公も「身寄りもなく寂しい者に、もっとも憐れみを加えられることこそ、仁政の基本である」と言われた。ところが、これまでの240~50年もの間、戦乱はなかったものの、しだいに上の位に立つ者が、奢侈にふけり、おごりを極め、大切な政治にたずさわる諸役人は、公然と賄賂を贈ったり、賄賂を受け取ったりしている。地位の高い家に女を送り込んで、道徳も仁義も知らない未熟者であっても、立身して重役に昇進し、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その支配地の民百姓達へは過分の御用金を申し付けている。これまでの年貢・賦役に苦しんできた上に、右のように、無理無体を申し渡され、次々に出費がかさみ、ついには天下の困窮となった。このため、上を怨まない者がいない状態となってしまつたのだが、江戸をはじめ全国すべてがこうした有様に落入っている。、
 天皇は、足利時代以来、とりわけ隠居同然に追いやられ、恩賞を与え懲罰を下す君主の権限をも喪失し、下々の者がその怨みをどこかへ告げようとしても、訴へ出る方法がないほどに乱れている。このような人々の怨みが天に通じ、近年、地震、火災、山崩れ、洪水等の各種の自然災害が頻発するようになった。ついに、五穀が実らず飢饉になってしまったのである。これは皆、天が深く誡めている有難い啓示ではあるが、一向に上層部の人々は気付かず、なおも、器が小さく奸計を巡らす者どもが大切な政治を執り行ない、ただ下々の人民を悩まして、米や金銭を取り立てる手段ばかりにかかわっている。事実、貧しき農民達の苦難を、私たちのようなものは、陰ながら常々察して、為政者どもを深く恨んではいたが、殷の湯王や周の武王のような権勢も地位もなく、孔子や孟子のような道徳もなければ、いたずらに家に閉じこもっているばかりであった、ところがこの頃米価がますます高値になり、大坂町奉行所ならびに諸役人どもは万物一体の仁を忘れ、好き勝手な政治をして、江戸への米の廻送の手はずはするが、天皇がおられる京都へは米の廻送を手配しないばかりでなく、五升・一斗程度のわずかな米を大坂に買ひにくる者すらこれを召捕らえるような事をしている。昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したというが、それと同様に言語道断の話だ、どこの土地であっても人民は徳川家御支配の者に相違ないのに、それをこのように差別を付けるのは、まったく奉行等に仁がないからである。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の有閑層(悪徳商人や高利貸し等)ばかりを大切に考えているのは、前にも言ったように、道徳や仁義もない未熟者のするところで、たいへん厚かましく、不届きなことである。また三都の内で大坂の金持どもは、日ごろから諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀ならびに扶持米を莫大にかすめ取っていて、今までにないほどの有福な暮しをしている。彼等は町人の身分でありながら、大名家の用人格等に扱われ、または自分の田畑新田などをおびただしく所有し、何不足なく暮らし、近年の天災、天罰を見ながら畏れもせず、餓死する貧乏人や乞食をあえて救おうともせず、自分自身は山海の珍味など結構なものを食し、妾の家等へ入りびたり、あるいは揚屋や茶屋へ大名の家来を誘引して行く、高価な酒を湯水を呑むように振舞い、この難渋の時期に絹の着物を着て、役者を妓女と共に迎えて、普段と変わらない様に遊楽に耽るのは、どういうことであろうか。殷朝最後の王である紂王が、夜毎に美女を侍らせ酒宴したという故事と同様、そのところの奉行諸役人は、手にした権力をもってこのような者共を取りしまり、貧しい人々を救うことも出来ない、日々堂島の相場にのめり込んでいる。まったく禄盗人であり、誠を目的とする天の道に辿り着いた昔の聖人たちの心に叶わず、許しがたきことである。私達家に閉じこもっていた者共は、もはや我慢できなくなった。湯王や武王のような威勢、孔子や孟子のような仁徳がなくても、天下の為めと思って、罪が一族に及ぶことをかえりみず、このたび有志の者と申し合せて、貧しい人々を苦しめる諸役人をまず罪を責めて討ち、続いて驕りに耽っている大阪市中の金持共の罪を責めて殺すことにした。そして右の者共が地下式倉庫に蓄えていた金銀銭や蔵屋敷に保管されている扶持米を運び出して、人々に分配配当するので、摂津・河内・和泉・播磨の国々の者で田畑を所有しない者、たとえ所持していても父母や妻子など家族を養うのが大変な生活困窮者へは、右の金や米を分配するから、何時でも大坂市中で騒動が起ったと聞き伝えたならば、遠近を問わず、どこからでも一刻も早く大坂へ向け馳せ参じて来てほしい、それらの者へ右の金や米を分配するものである。これは殷の紂王が財物を入れた倉の金銭や粟(食糧)を民に与えたという武王の故事にならうもので、当面の飢饉の難儀を救いたい。もしまた、その内優れた人物・才能の者があれば、それぞれ取り立て、無法者たちの征伐の軍役にも参加していただきたい。決して一揆蜂起の企てとは違い、徐々に年貢や賦役に至るまですべてを少なくし、かつて神代の衰微を神武天皇が中興したように、寛大で情け深い取扱いにいたし遣、日ごろからのおごっていてぜいたくで放埒な風俗をすっかり改め、質素に立ち戻り、国中のすべての人が、いつまでも、天のめぐみを有難く思い、父母妻子を養い、生きながらの地獄から救われ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、尭舜のような中国古代の理想的時代、神代の時代に戻すことは難しくても、神武天皇が中興した時代に回復して、立ち戻したいのである。
 この書き付けを村々へ一々知らせたいとは思うのだが、数が多いことでもあり、最寄りの人家の多い大村の神殿へ貼り付けて置き、大阪から巡視しにくる役人共に知らせないように心懸け、早々に村々へ触れ回ってほしい。万一番人共が目をつけ、大坂の天王寺・天満・鳶田・道頓堀の四ヶ所の手先共へ注進するようであったならば、遠慮なくそれぞれ申し合せて番人を残らず打ち殺すべきである。もし右騒動が起ったことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかったり、または遅参ずるようなことがあっては、金持ちの金は、皆火中の灰になり、天下の宝を取り失うことになる。後になって我等を恨み、宝を捨てる無道者と陰口をたたかないでほしい。そのため一同へ触れ知らせるのである。これまで、地頭や村役たちに保管されている税に関するすべての記録や帳面の類いをすべて引き破り焼き捨てるべきである。是は深い思慮のあることで、将来にわたって人々を困窮させないために為せるものである。しかしながら、この度の蜂起は、日本の平将門、明智光秀、中国の武帝(南朝の宋の初代皇帝)、朱全忠(後梁の初代皇帝)の謀叛に似ているという者もきっと有るのも無理からぬ道理ではあるが、私たち一同、天下国家を奪い取ろうという欲念から事を起こしたのでは決してなく、月や太陽、星などの天の動きの摂理に基づいた霊妙な鑑識によるものである。つまる所は、湯王と武王、前漢の初代皇帝(劉邦)、明の初代皇帝(朱元璋)が、民を弔い、悪い支配者を征伐して、天誅を執行したのと同じように、私たちがなにをするかを、終始見定めていただきたい。
 但し、この書付は貧しき人々へは道場坊主あるいは医師等によりとくと読み聞かせられたい。もし、庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分だけ読んで隠しておいたならば、追って必ずその罪が追及されるであろう。
 ここに、天命を受けて天誅を下す行為に打って出る。

 天保八丁酉年(1837年) 月 日        某
  摂津・河内・和泉・播磨の村々
   庄屋年寄百姓ならびに貧民百姓たちへ