山本周五郎(やまもと しゅうごろう)は、1903年(明治36)6月22日に、山梨県北都留郡初狩村(現在の大月市初狩町下初狩)で、父・清水逸太郎、母・とくの子として生まれましたが、本名は清水三十六(しみず さとむ)と言いました。
1907年(明治40)の大水害後、一家で北豊島郡王子町豊島(現在の東京都北区豊島)に転居し、豊島小学校に入学します。しかし、1910年(明治43)に再び水害に遭い、神奈川県横浜市久保町(現在の神奈川県横浜市西区)に転居、西戸部小学校に転校しました。
1916年(大正5)に卒業後、東京木挽町の山本周五郎商店(筆名の由来となる)の徒弟となり、正則英語学校、大原簿記学校で学びます。1923年(大正12)9月1日の関東大震災によって被災し、文学の新天地を関西に求め地方新聞記者、雑誌記者を体験して帰京後『日本魂』編集者となりました。
1926年(大正15)に、『文藝春秋』の懸賞に投じた小説『須磨寺附近』で文壇に登場し、同年の戯曲『法林寺異記』 でも評価されます。1928年(昭和3)に日本魂社を辞め、1931年(昭和6)から東京の馬込文士村の住人となり、文筆業に専念、少年探偵ものや冒険活劇を書いていました。
尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになり、1943年(昭和18)の『日本婦道記』で直木賞に推されましたが辞退しています。太平洋戦争後も、『樅(もみ)ノ木は残った』(1958年)で毎日出版文化賞を辞退、『青べか物語』(1960年)で文藝春秋読者賞を辞退するなど、権威をきらう姿勢が読者の支持を得ました。
庶民的な感覚の人情ものから歴史長編まで多くの作品を手がけ、映画化やテレビドラマ化も多数され人気を博しましたが、1967年(昭和42)2月14日に、神奈川県横浜市において、63歳で亡くなっています。
尚、1987年(昭和62)から、「山本周五郎賞」が新潮文芸振興会により設定されました。
〇山本周五郎の主要な著作
・『須磨寺附近』(1926年)
・戯曲『法林寺異記』(1926年)
・『だゝら團兵衛』(1932年)
・『日本婦道記』(1943年)直木賞辞退
・『山彦乙女』(1951年)
・『よじょう』(1952年)
・『栄花物語』(1953年)
・『正雪記』(1953~54年、1956年)
・『樅(もみ)ノ木は残った』(1958年)毎日出版文化賞辞退
・『赤ひげ診療譚(たん)』(1958年)
・『五瓣の椿』(1959年)
・『天地静大』(1959年)
・『青べか物語』(1960年)文藝春秋読者賞辞退
・『おさん』(1961年)
・『虚空遍歴』(1961~63年)
・『さぶ』(1963年)
・『季節のない街』(1964年)
・『ながい坂』(1964~66年)