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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こした日です。
 佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7)2月、前参議江藤新平、前秋田権令島義勇らが佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1,000余人と共に、征韓論反対の明治政府に対して起こした不平士族の反乱の一つでした。
 前年の明治6年10月の政変(征韓論分裂)で参議江藤新平は、参議西郷隆盛らと下野し、また板垣退助らと「民撰議院設立建白書」に名を連ねましたが、郷里の佐賀に帰ります。当時の佐賀県には、強硬に征韓論を唱える征韓党があり、この江藤を首領としました。また、中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し、旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える島義勇を首領とする憂国党があり、反明治新政府の行動を共にするようになります。
 旧弘道館に本部を設置し、「征韓先鋒請願事務所」を名のり、2月1日に3,000余人(のち1万1,000余人に達する)が小野商会を襲って行動を起こしました。これを機に、明治政府は4日に、鎮圧のため出兵を命令し、参議大久保利通を全権とした鎮圧軍が佐賀へと向います。
 反乱軍は13日に、「決戦の議」を発し、18日に佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けました。しかし、博多から南下した政府軍と朝日山で交戦したものの、最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず敗走を重ねます。高知、熊本、中津などからの期待した援軍も得られず、2週間ほどの戦闘の後、2月いっぱいで鎮圧されました。
 江藤と島は逃走しましたが、2月29日に江藤が四国で、3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ、裁判の結果、ともに4月13日に晒首(さらしくび)の刑を受けました。他に、400人余が処罰(斬罪11名、懲役130名を含む)されましたが、内乱鎮圧に対する明治政府の強い態度を示す重いものとなります。
 その後、不平士族の反乱は、1876年(明治9)10月の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と続き、1877年(明治10)の西郷隆盛を大将に擁立した西南戦争へと至りました。

〇明治政府に対する不平士族の反乱一覧

・1874年(明治7)2月 江藤新平が故郷の佐賀県で擁立されて佐賀の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 熊本県で神風連の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱が起こる
・1876年(明治9)10月 山口県で前原一誠らによる萩の乱が起こる
・1877年(明治10) 旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して西南戦争がおこる