ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年01月

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 今日は、平成時代の2013年(平成25)に、小説家安岡章太郎の亡くなった日です。
 安岡 章太郎(やすおか しょうたろう)は、大正時代の1920年(大正9)4月18日に、高知県高知市帯屋町で、陸軍獣医の父・安岡章、母・恒の子として生まれました。幼少の頃から父の勤務地を転々とし、第一東京市立中学校(当時)を経て、1941年(昭和16)に、慶應義塾大学文学部予科に入学します。
 1944年(昭和19)に慶應義塾大学在学中に召集を受けて満州に渡りますが、肺結核を患い除隊となって帰国しました。戦後、復学しましたが、貧窮と病苦のなかで勉学し、1948年(昭和23)に英文学科を卒業します。
 脊椎カリエスを罹患し、苦痛の中で小説を書き、『三田文学』に発表した『ガラスの靴』が芥川賞候補となり、文壇デビューを果たしました。1953年(昭和28)『悪い仲間』『陰気な愉しみ』で芥川賞を受賞し、自己を劣等生に擬する作品で知られ、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三らとともに「第三の新人」と呼ばれるようになります。
 1959年(昭和34)に『海辺の光景』で、芸術選奨、野間文芸賞を受賞し、翌年にアメリカ合衆国に留学し、『アメリカ感情旅行』(1962年)を発表しました。その後、『幕が下りてから』(1967年)で毎日出版文化賞受賞、『走れトマホーク』(1973年)で読売文学賞小説賞受賞、日本芸術院会員(1976年)、『流離譚』(1976~81年)で日本文学大賞と数々の栄誉に輝きました。
 晩年まで執筆活動を続け、2001年(平成13)には、文化功労者に選ばれましたが、2013年(平成25)1月26日、東京において、老衰により92歳で亡くなります。

〇安岡章太郎の主要な著作

・『ガラスの靴』(1951年)
・『宿題』(1952年)
・『愛玩』(1952年)
・『悪い仲間』(1953年)芥川賞受賞
・『陰気な愉しみ』(1953年)芥川賞受賞
・『遁走』(1956年)
・『青葉しげれる』(1958年)
・『海辺(かいへん)の光景』(1959年)芸術選奨、野間文芸賞受賞
・『家族団欒(だんらん)図』(1961年)
・エッセイ集『アメリカ感情旅行』(1962年)
・『花祭』(1962年)
・『幕が下りてから』(1967年)毎日出版文化賞受賞
・文学論『志賀直哉(なおや)私論』(1968年)
・『走れトマホーク』(1973年)読売文学賞小説賞を受賞
・『私説聊斎志異(りょうさいしい)』(1973~74年)
・『放屁(ほうひ)抄』(1979年)
・『流離譚(りゅうりたん)』(1976~81年)日本文学大賞受賞
・エッセイ『僕の昭和史』(1979~88年)野間文芸賞受賞
・『果てもない道中記』(1996年)読売文学賞随筆・紀行賞受賞
・『鏡川』(2000年)大佛次郎賞受賞
・『カーライルの家』(2006年)
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に医学者・細菌学者志賀潔の亡くなった日です。
 志賀潔(しが きよし)は、明治時代前期の1871年2月7日(明治3年12月18日)に、陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に、仙台藩士だった父・佐藤信の次男として生まれましたが、初名は、佐藤直吉と言いました。1878年(明治11)に、母の生家で藩医だった志賀家に入り、潔と改名します。
 第一高等中学校を経て、1892年(明治25)に帝国大学医科大学(後の東京帝国大学医学部)に入学しました。1896年(明治29) に大学卒業後、大日本私立衛生会伝染病研究所(北里柴三郎所長)に入所し、細菌学・免疫学の研究に従事します。
 1897年(明治30)に、赤痢菌を発見し、「細菌学雑誌」に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表、翌年には要約論文をドイツ語で発表し、一躍世界に知られました。1901年(明治34)にドイツ・フランクフルトに留学しパウル・エールリヒに師事、生物化学、免疫学、化学療法を研究します。
 1905年(明治38)に帰国し、医学博士号を取得、1912年(明治45)に再度ドイツに渡り、パウル・エールリヒの下で研究します。帰国後は、伝染病研究所で活動しましたが、1914年(大正3)、伝染病研究所の文部省移管に際して北里所長と行動をともにして辞職、翌年、北里研究所創立とともに第四部長となりました。
 1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任しましたが、同年には朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長兼任となり、以後、京城帝国大学教授、同医学部長、同総長を歴任し、1931年(昭和6)に退任して東京に戻ります。北里研究所顧問となりましたが、1936年(昭和11)に錦鶏之間祗候(勅任官待遇)となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章しました。
 翌年の東京大空襲で被災し、仙台市へ疎開、太平洋戦争後、1948年(昭和23)に日本学士院会員となります。1949年(昭和24)からは、宮城県亘理郡坂元村の別荘(貴洋翠荘)に居住しましたが、1957年(昭和32)1月25日に同地において、老衰により86歳で亡くなりました。

〇志賀潔の主要な著作

・『細菌学及免疫学』(1923年)
・『パウル・エールリッヒ伝』(1941年)
・『貴洋翠荘閑話(きようすいそうかんわ)』(1950年)
・『ある老科学者とせがれとの対話』(1953年)
・『或(あ)る細菌学者の回想』(1966年)
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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、小説家火野葦平の亡くなった日です。
 火野葦平(ひの あしへい)は、明治時代後期の1907年(明治40年)1月25日に、福岡県若松市(現在の北九州市若松区)で、沖仲仕「玉井組」を営んだ父・玉井金五郎の長男(母・マン)として生まれましたが、本名は玉井勝則と言いました。
 小倉中学校(現在の県立小倉高等学校)に入り、文学に興味を持ち、第一高等学院へ進学後、童話集『首を売る店』(1924年)を自費出版します。1926年(大正15)に、早稲田大学英文科に入学、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌『街』を創刊して小説や詩を発表しました。
 1928年(昭和3)2月、兵役で福岡第24連隊に入営し、大学を中退することとなります。除隊後は家業の沖仲仕玉井組を継ぎ、その一方で沖仲仕の労働組合を結成して労働運動に関わりました。
 1932年(昭和7)に検挙されて転向し、地元の同人詩誌『とらんしつと』で文学活動を再開し、1934年(昭和9年)には、筆名を火野葦助から火野葦平にあらためます。1937年(昭和12)に日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』が第6回芥川賞を受賞しました。
 戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て、続く『土と兵隊』、『花と兵隊』の三部作となります。帰還後は、中野実ら従軍芸術家と「文化報国会」を結成、兵隊作家とよばれて人気を博し、太平洋戦争中は報道班員として活躍しました。
 戦後は、戦争協力者として公職追放を受け、1950年(昭和25)に解除されます。その後、『赤道祭』(1951年)、『花と竜』(1952~53年)、『革命前後』(1959年)などを執筆しましたが、1960年(昭和35)1月24日に、福岡県若松市において、52歳で睡眠薬自殺をしました。没後の5月に、『革命前後』および生前の業績により、日本芸術院賞を受賞しています。
 尚、1960年(昭和35)に、故郷の北九州市若松区の若松市民会館内に火野葦平資料館が設置され、1999年(平成11)には旧居・河伯洞が改修されて公開されました。

〇火野葦平の主要な著作

・童話集『首を売る店』(1924年)
・詩集『山上軍艦』(1937年)
・『糞尿譚』(1937年) 芥川賞受賞
・『麦と兵隊』(1938年)
・『土と兵隊』(1938年)
・『花と兵隊』(1938~39年)
・詩集「青狐」(1943年)
・『青春と泥濘(でいねい)』(1950年)
・『赤道祭』(1951年)
・『花と竜』(1952~53年)
・『紅い国の旅人』(1955年)
・『革命前後』(1959年)芸術院賞受賞
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 今日は、江戸時代前期の1657年(明暦3)に、江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の亡くなった日ですが、新暦では3月7日となります。
 林羅山(はやし らざん)は、安土桃山時代の1583年(天正11)8月に、京都四条新町で、加賀国の郷士の末裔で浪人だった父の子として生まれましたが、本名は信勝と言いました。
 1595年(文禄4)に臨済宗の建仁寺に入って、大統庵の古澗慈稽に、次に十如院の英甫永雄に就いて、儒学と仏教を学びます。1597年(慶長2)に家に戻ってからはもっぱら儒書に親しみ、朱子の章句、集注を研究して、朱子学(宋学)に傾倒していきました。
 1604年(慶長9)に、角倉素庵の仲介で藤原惺窩と出会い、論争後、その門に入ります。1607年(慶長12)惺窩の推挙で、徳川家康に仕え、以後秀忠、家光、家綱と4代の将軍の侍講を勤めました。
 その中で、儀式・典礼の調査、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの制定や『寛永諸家系図伝』、『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草に関与し、幕政の整備に貢献します。
 また、1630年(寛永7)に上野忍岡に私塾・文庫と孔子廟を建てて、のち官学となった昌平坂学問所(昌平黌)の学問の礎を築きました。朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となります。
 『三徳抄』、『大学解』、『神道伝授』、『本朝神社考』、『羅山文集』など多くを著しましたが、1657年(明暦3)に、江戸において、数え年75歳で亡くなりました。

〇林羅山の主要な著作

・『大学抄』
・『大学解』
・『論語解』
・『三徳抄』
・『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』
・『丙辰紀行』
・『寛永諸家系図伝』
・『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629年)
・『性理字義諺解(げんかい)』
・『林羅山先生詩集・文集』
・『本朝神社考』(1638~45年成立)
・『神道伝授』(1644~47年)
・『神道秘伝折中俗解』
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16年)に、近衛文麿内閣が「人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とした日です。
 これは、大東亜共栄圏の確立を目指して、人的資源の増大(兵力・労働力の増強)のため、1960年(昭和35)には、人口1億人を確保する、「人口大国:日本」をつくろうとするすものでした。具体的には、「結婚年齢を10年間で3年早め、男子25歳、女子21歳に引き下げる」、「平均5児以上をもうける」などというものです。
 そのために、「女性の就業は抑制する」、「独身者は税金を重くする」、「避妊、堕胎は禁止する」、「結婚費用の徹底的軽減を図り、婚資貸付制度ヲ創設する」、「多子家族に対し物資の優先配給、表彰、その他各種の適切なる優遇の方法を講ずる」などとされました。
 そして、「産めよ殖やせよ国のため」のスローガンの下で、国民的な運動が展開されていきます。
 以下に、当時の厚生大臣談話と「人口政策確立要綱」の全文を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「人口政策確立要綱」発表時の厚生大臣談話

 皇國の大使命たる東亞共榮圏を確立し之が存續に微動だも容さざらしむる爲には、其の中心であり指導者である所の吾が國が、質に於て優秀、母に於て多數の人口を有せねばならぬ。此のことは今次歐州動亂の主流を爲す所の各國の情勢に鑑みても痛感せられるのである。本日閣議に於て人口の速なる増強を圖るため人口政策確立要綱の決定を見たことは、誠に慶賀に堪へない次第である。
 人口増殖は、先づ出生の増加を基調とすべきで、出生率を減退せしめる有らゆる精神的物質的原因を除去せねばならぬが、苟も個人主義的の功利思想や頽廃的享楽觀が幾らかでも原因を爲すやうな事があっては由々しき大事であるから、此の如き思想をば極力之を排除して、家を基とし、民族の發展を期する所の雄大なる思想を確立することが肝要である。次に出生の増加と相竝んで死亡の減少に力を注がねばならぬが、現在吾が國の死亡率が、他の文明國に比して比較的高位にあることは洵に遺憾である。之に就いては、重點を乳幼兒保育の改善と結核の予防とに置いて、極力死亡率の低下を圖らねばならぬ。
 凡そ國民の精神的及肉體的増強を圖ることは國力の根基に培う所以であるから人口増殖方策と併せて、國民錬成の為の厚生諸施策を講ずることも亦、正に喫緊の要務である。
 本日恒久的人口政策が確立されたのであるが、今後は着々之を實施に移すことが肝要である。厚生省としては、特に其の責任の大部分を負擔するの感を深うする。人口増強の問題は、國防力及生産力擴充の上から重大問題であるばかりでなく、國家の将来に對して永遠に運命を支配する所の大問題であるから、政府は今後各省一體となって本國策の遂行に万全を期するは勿論であるが、全國民も亦十分の其の重要性を理解して、民族永遠の發展に協力せられんことを切望する次第である。


〇「人口政策確立要綱」 1941年(昭和16)1月22日 閣議決定

第一、趣旨

東亜共栄圏ヲ建設シテ其ノ悠久ニシテ健全ナル発展ヲ図ルハ皇国ノ使命ナリ、之ガ達成ノ為ニハ人口政策ヲ確立シテ我国人口ノ急激ニシテ且ツ永続的ナル発展増殖ト其ノ資質ノ飛躍的ナル向上トヲ図ルト共ニ東亜ニ於ケル指導力ヲ確保スル為其ノ配置ヲ適正ニスルコト特ニ喫緊ノ要務ナリ

第二、目標

右ノ趣旨ニ基キ我国ノ人口政策ハ内地人人口ニ就キテハ左ノ目標ヲ達成スルコトヲ旨トシ差当リ昭和三十五年総人口一億ヲ目標トス、外地人人口ニ就キテハ別途之ヲ定ム
一、人口ノ永遠ノ発展性ヲ確保スルコト
二、増殖力及資質ニ於テ他国ヲ凌駕スルモノトスルコト
三、高度国防国家ニ於ケル兵力及労力ノ必要ヲ確保スルコト
四、東亜諸民族ニ対スル指導力ヲ確保スル為其ノ適正ナル配置ヲナスコト

第三、右ノ目的ヲ達成スル為採ルベキ方策ハ左ノ精神ヲ確立スルコトヲ旨トシ之ヲ基本トシテ計画ス

一、永遠ニ発展スベキ民族タルコトヲ自覚スルコト
二、個人ヲ基礎トスル世界観ヲ排シテ家ト民族トヲ基礎トスル世界観ノ確立、徹底ヲ図ルコト
三、東亜共栄圏ノ確立、発展ノ指導者タルノ矜持ト責務トヲ自覚スルコト
四、皇国ノ使命達成ハ内地人人口ノ量的及質的ノ飛躍的発展ヲ基本条件トスルノ認識ヲ徹底スルコト

第四、人口増加ノ方策

人口ノ増加ハ永遠ノ発展ヲ確保スル為出生ノ増加ヲ基調トスルモノトシ伴セテ死亡ノ減少ヲ図ルモノトス
一、出生増加ノ方策
出生ノ増加ハ今後ノ十年間ニ婚姻年齢ヲ現在ニ比シ概ネ三年早ムルト共ニ一夫婦ノ出生数平均五児ニ達スルコトヲ目標トシテ計画ス
之ガ為採ルベキ方策概ネ左ノ如シ
(イ)人口増殖ノ基本的前提トシテ不健全ナル思想ノ排除ニ努ムルト共ニ健全ナル家族制度ノ維持強化ヲ図ルコト
(ロ)団体又ハ公営ノ機関等ヲシテ積極的ニ結婚ノ紹介、斡旋、指導ヲナサシムルコト
(ハ)結婚費用ノ徹底的軽減ヲ図ルト共ニ、婚資貸付制度ヲ創設スルコト
(ニ)現行学校制度ノ改革ニ就キテハ特ニ人口政策トノ関係ヲ考慮スルコト
(ホ)高等女学校及女子青年学校等ニ於テハ母性ノ国家的使命ヲ認識セシメ保育及保健ノ知識、技術ニ関スル教育ヲ強化徹底シテ健全ナル母性ノ育成ニ努ムルコトヲ旨トスルコト
(ヘ)女子ノ被傭者トシテノ就業ニ就キテハ二十歳ヲ超ユル者ノ就業ヲ可成抑制スル方針ヲ採ルト共ニ婚姻ヲ阻害スルガ如キ雇傭及就業条件ヲ緩和又ハ改善セシムル如ク措置スルコト
(ト)扶養家族多キ者ノ負担ヲ軽減スルト共ニ独身者ノ負担ヲ加重スル等租税政策ニ就キ人口政策トノ関係ヲ考慮スルコト
(チ)家族ノ医療費、教育費其ノ他ノ扶養費ノ負担軽減ヲ目的トスル家族手当制度ヲ確立スルコト
之ガ為家族負担調整金庫制度(仮称)ノ創設等ヲ考慮スルコト
(リ)多子家族ニ対シ物資ノ優先配給、表彰、其ノ他各種ノ適切ナル優遇ノ方法ヲ講ズルコト
(ヌ)妊産婦乳幼児等ノ保護ニ関スル制度ヲ樹立シ産院及乳児院ノ拡充、出産用衛生資材ノ配給確保、其ノ他之ニ必要ナル諸方策ヲ講ズルコト
(ル)避妊、堕胎等ノ人為的産児制限ヲ禁止防遏スルト共ニ、花柳病ノ絶滅ヲ期スルコト
二、死亡減少ノ方策
死亡減少ノ方策ハ当面ノ目標ヲ乳幼児死亡率ノ改善ト結核ノ予防トニ置キ一般死亡率ヲ現在ニ比シ二十年間ニ概ネ三割五分低下スルコトヲ目標トシテ計画ス此ノ目的達成ノ為採ルベキ方策概ネ次ノ如シ
(イ)保健所ヲ中心トスル保健指導網ヲ確立スルコト
(ロ)乳幼児死亡率低下ノ中心目標ヲ下痢腸炎、肺炎及先天性弱質ニ依ル死亡ノ減少ニ置キ、之ガ為都市農村ヲ通ジ母性及乳幼児ノ保護指導ヲ目的トスル保健婦ヲ置クト共ニ保育所ノ設置、農村隣保施設ノ拡充、乳幼児必需品ノ確保、育児知識ノ普及ヲ図リ、併セテ乳幼児死亡低下ノ運動ヲ行フコト
(ハ)結核ノ早期発見ニ努メ産業衛生並ニ学校衛生ノ改善、予防並ニ早期治療ニ関スル指導保護ノ強化、療養施設ノ拡充等ヲナスト共ニ各庁連絡調整ノ機構ヲ整備シテ結核対策ノ確立徹底ヲ期スルコト
(ニ)健康保険制度ヲ拡充強化シテ之ヲ全国民ニ及ボスト共ニ医療給付ノ外予防ニ必要ナル諸般ノ給付ヲナサシムルコト
(ホ)環境衛生施設ノ改善、特ニ庶民住宅ノ改善ヲ図ルコト
(ヘ)過労ノ防止ヲ図ル為国民生活ヲ刷新シテ充分ナル休養ヲ採リ得ル如クスルコト
(ト)国民栄養ノ改善ヲ図ル為栄養知識ノ普及徹底ヲ図ルト共ニ栄養食ノ普及、団体給食ノ拡充ヲナスコト
(チ)医育機関並ニ医療及予防施設ノ拡充ヲナスト共ニ医育ヲ刷新シ予防医学ノ研究及普及ヲ図ルコト

第五、資質増強ノ方策

資質ノ増強ハ国防及勤労ニ必要ナル精神的及肉体的ノ素質ノ増強ヲ目標トシテ計画ス
(イ)国土計画ノ遂行ニヨリ人口ノ構成及分布ノ合理化ヲ図ルコト、特ニ大都市ヲ疎開シ人口ノ分散ヲ図ルコト
之ガ為工場、学校等ハ極力之ヲ地方ニ分散セシムル如ク措置スルモノトス
(ロ)農村ガ最モ優秀ナル兵力及労力ノ供給源タル現状ニ鑑ミ、内地農業人口ノ一定数ノ維持ヲ図ルト共ニ日満支ヲ通ジ内地人人口ノ四割ハ之ヲ農業ニ確保スル如ク措置スルコト
(ハ)学校ニ於ケル青少年ノ精神的及肉体的錬成ヲ図ルコトヲ目的トシテ、教科ノ刷新ヲ行ヒ訓練ヲ強化シ、教育及訓練方法ヲ改革スルト共ニ体育施設ノ拡充ヲナスコト
(ニ)都市人口激増ノ現状ニ鑑ミ特ニ都市ニ於ケル青少年ノ心身ノ錬成ヲ強化シテ之ヲシテ優秀ナル兵力及労力ノ供給源タラシムルコト
(ホ)青年男子ノ心身鍛錬ノ為一定期間義務的ニ特別ノ団体訓練ヲ受ケシムル制度ヲ創設スルコト
(ヘ)各種厚生体育施設ヲ大量ニ増加スルト共ニ健全簡素ナル国民生活様式ヲ確立スルコト
(ト)優生思想ノ普及ヲ図リ、国民優生法ノ強化徹底ヲ期スルコト

第六、指導力確保ノ方策

指導力確保ノ方策ハ東亜共栄圏内ノ各地域ニ於ケル政治、経済、文化等ノ各社会ノ指導ニ必要ナル内地人人口ノ配置ヲ目標トシテ計画ス
之ガ為採ルベキ方策概ネ次ノ如シ
(イ)日満不可分関係強化ノ趣旨ニ則リ人口ノ一定割合ニ相当スル内地人人口ヲ其ノ地域ニ移住セシムルコト
之ガ為一層大規模ノ総合的移民計画ヲ樹立スルト共ニ、日満ヲ通ジテ之ガ遂行ニ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
(ロ)其ノ他ノ東亜共栄圏ニ対シテモ其ノ指導ニ必要ナル内地人人口ノ配置ヲナス為之ニ必要ナル移民計画ヲ樹立スルコト

第七、資料ノ整備

一、人口ノ動態及静態ニ関スル統計ヲ整備改善スルコト
二、国民体力法ノ適用範囲ヲ拡張シ其ノ内容ヲ充実スルト共ニ其ノ他ノ体力及保健ニ関スル資料ヲ整備充実スルコト

第八、機構ノ整備

一、人口問題ニ関スル統計、調査、研究ノ機構ヲ整備充実スルコト
二、人口政策ノ企画、促進及実施ノ機構ヲ整備充実スルコト

 注:縦書きの原文を横書きに改めてあります

  「国家総動員史 資料編 第4」石川準吉著 国家総動員史刊行会より
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