ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年01月

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 今日は、昭和時代後期の1985年(昭和60)に、小説家石川達三の亡くなった日です。
 石川達三(いしかわ たつぞう)は、明治時代後期の1905年(明治38)7月2日に、秋田県平鹿郡横手町(現在の横手市)で、中学校の英語科教員だった父・石川祐助(ゆうすけ)と母・うんの12人兄弟の三男として生まれました。
 父の転勤や転職に伴って、秋田市、東京、岡山市などを転々としますが、1914年(大正3)に9歳で母を亡くしています。岡山県立高梁中学校を経て、関西中学校を卒業し、第二早稲田高等学院から、1927年(昭和2)に早稲田大学文学部英文科に入学しました。在学中に『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選しましたが、学資が続かず1年で退学します。
 電気業界誌『国民時論』に入り、自活しつつ小説を書きますがうまくいかず、1930年(昭和5)に退職し、その退職金で移民団に投じ、ブラジルへ渡航したものの、半年で帰国しました。その経験を書いた『蒼氓』で1935年(昭和10)に第1回芥川賞を受け、社会派作家として出発します。
 翌年結婚し、1938年(昭和13)に『生きてゐる兵隊』で「新聞紙法」違反に問われ発禁処分と禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける一方、ベストセラーとなった『結婚の生態』を執筆しました。
 太平洋戦争後は、旺盛に作家活動を展開し、『望みなきに非ず』(1947年)、『風にそよぐ葦』(1949~51年)、『人間の壁』(1957~59年)、『傷だらけの山河』(1962~63年)、『金環蝕』(1966年)など、時代感覚に富んだ社会批評的作品を多く発表し、1969年(昭和44)に第17回菊池寛賞を受賞しています。
 また、日本ペンクラブ第7代会長(1975~77年)、日本芸術院会員、日本文芸家協会理事長などを歴任しましたが、1985年(昭和60)1月31日に、東京において、79歳で亡くなりました。

〇石川達三の主要な著作

・『蒼氓(そうぼう)』(1935年)第1回芥川賞受賞
・『心猿』(1935~36年)
・『日蔭(ひかげ)の村』(1937年)
・『生きてゐる兵隊』(1938年)
・『三代の矜持』(1938年)
・『結婚の生態』(1938年)
・『武漢作戦』(1939年)
・『転落の詩集』(1940年)
・『望みなきに非(あら)ず』(1947年)
・『泥にまみれて』(1948年)
・『風にそよぐ葦(あし)』(1949~51年)
・『四十八歳の抵抗』(1955~56年)
・『人間の壁』(1957~59年)
・『充たされた生活』(1961年)
・『僕たちの失敗』(1961年)
・『傷だらけの山河』(1962~63年)
・『金環蝕(きんかんしょく)』(1966年)
・『青春の蹉跌』(1968年)
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 今日は、江戸時代後期の1788年(天明8)に、京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起こった日ですが、新暦では3月7日となります。
 この大火は、1月30日早朝に鴨川の東、団栗辻子(どんぐりのづし)の民家から出火し、東からの強風にあおられて、南へ五条通りまで延焼、その間鴨川西岸に飛火し、市街地の大部分を焼き尽くし、二昼夜燃え続けて、2月2日朝にようやく鎮火しました。別名、団栗焼け(どんぐりやけ)、申年の大火(さるどしの たいか)、都焼け(みやこやけ)とも呼ばれています。
 この結果、『古久保家文書』によると、焼失した町数は1,424町余、36,797軒、65,340世帯、寺201、神社37、死者150とされ、御所や二条城、仙洞御所、京都所司代屋敷、東西両奉行所、摂関家の邸宅、東西の本願寺も焼失しています。
 光格天皇は御所焼失により、再建までの3年間、聖護院を仮御所とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院にそれぞれ移らざるを得ませんでした。江戸幕府は、急遽老中松平定信を京都に派遣して、朝廷とこの大火についての善後策を協議し、御所の再建を図っています。
 火災の影響で、京都の経済は大きな痛手をこうむり、京都の最先端技術が地方に拡散して伝えられる契機ともなりましたが、桐生の織物や銚子の醤油はその一例とされてきました。
 後世、江戸時代中に起きた、1708年(宝永5年3月8日)の「宝永の大火」、1864年(元治元年7月19日)の「元治の大火」と併せて、近世の「京都三大大火」と呼ばれるようになります。しかし、下記のように、江戸の大火と比べると被害は桁違いで、当時は江戸の方が人口が密集し、被害が甚大でした。

〇江戸時代の大火

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」
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 今日は、1293年(正応6)に、南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の生まれたとされている日ですが、新暦では3月8日となります。
 北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は、村上源氏の流れを汲む名門の父・権大納言北畠師重と母・藤原隆重女の長男として生まれました。生後わずか半年で従五位下に叙爵、1308年(延慶元)に非参議従三位として公卿に昇進し、1310年(延慶3)に参議、翌年には左衛門督に任じられ検非違使別当を兼ねます。
 1318年(文保2)に後醍醐天皇が即位すると重用され、皇子世良親王の養育をゆだねられたほか、1320年(元応2)には淳和院別当に補せられ、1323年(元亨3)には、権大納言に昇進し、翌年大納言となりました。しかし、1330年(元徳2)の親王の薨去により、出家して宗玄 (のち覚空) と号します。
 1333年(正慶2/元弘3)建武の中興が成ると再び出仕し、子顕家とともに陸奥の経営に当たります。1335年(建武2)に北条氏の残党による中先代の乱の討伐に向かった足利尊氏が鎌倉でそのまま建武政権から離反すると、それを追って西上した顕家と共に1336年(延元1/建武3)上洛し、そのまま京都にとどまってふたたび国政に携わることとなりました。
 その後、足利尊氏の奏請により豊仁親王 (光明天皇) が即位したため、親房は後醍醐天皇を大和吉野に奉じて南朝をたてます。1338年(延元3/暦応元)に義良親王、次子顕信らと東国を回復するために出兵し、親房は常陸国小田城(現在の茨城県つくば市小田)に入りましたが、翌年後醍醐天皇が死去し、義良親王(後村上(ごむらかみ)天皇)が即位しました。
 小田城で、南朝の正統性を主張した『神皇正統記』と官制の沿革を述べた『職源鈔』を執筆したといわれています。同地方の経営に努めましたが北朝方に敗れ、1343年(康永2/興国4) に再び吉野に戻り、南朝の中心人物として活躍しました。
 幕府内部も分裂して観応の擾乱となり、1352年(正平7/文和元)に16年ぶりに入京を果たします。ところが、この政治情勢を永続させることができず都落ちし、1354年(文和3/正平9)4月17日に、山奥深い賀名生において、数え年62歳で亡くなりました。
 神・儒・仏の三学、故実に通じ、歌をよくし、著作も多く、他に、『元元集』、『東家秘伝』、『熱田本紀』などがあります。

〇北畠親房の主要な著作

・『元元集』(1337~38年頃)
・『神皇正統記』(1339年頃)
・『職原抄』
・『東家秘伝』
・『熱田本紀』
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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港した日ですが、新暦では2月20日となります。
 天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)は、宣教師バリニャーノの勧めによって、九州のキリシタン大名大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代としてローマ教皇のもとに派遣された少年使節団でした。
 イエズス会日本巡察師アレッサンドロ・バリニャーノは、1579年(天正7)に来日し、1581年(天正9)に織田信長に謁見して布教を許されます。そして、安土にコレジヨ、セミナリオを創設したり、九州の諸大名を教化するなど日本におけるキリスト教布教に尽力しました。
 バリニャーノのインド、ローマへの帰還に当たり、日本人少年をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを勧めます。島原半島の有馬のセミナリヨに学んでいた少年4名(14~15歳)が選ばれ、正使には大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信と大村純忠の名代として千々石(ちぢわ)ミゲルとし、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使に任じられました。
 1582年(天正10)1月28日に、長崎港を出帆し、中国のマカオ、インドのゴア、ポルトガルのリスボン、スペインのマドリード、イタリアのフィレンツェを経て、1585年(天正13)2月にローマ入りします。同年3月23日に、使節らはローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられるなど大歓迎を受け、援助を得ることに成功しました。その後、北イタリアの旅を続け、スペイン、ポルトガルを経て、翌年2月25日にリスボンを出港し、帰途に着きます。
 1587年(天正18)6月20日に使節団が帰国し、長崎港に到着しましたが、前年には、大友宗麟、大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布するなどキリスト教に関する風向きが変わってきていました。しかし、翌年閏1月に一行はゴアから再来したバリニャーノとともに聚楽第で豊臣秀吉に謁見し、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏しています。
 正副4使節はイエズス会に入りましたが、キリスト教に対する圧力が強まる中で、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になったものの、伊東マンショは病死、中浦ジュリアンは殉教死、原マルティノは追放先のマカオで死去するという数奇な運命をたどりました。
 この使節によって、ヨーロッパ・キリスト教世界に日本と日本人を知らしめたのは大きな功績です。また、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれてきました。

〇天正遣欧使節関係略年表

<1579年(天正7)>
・7月25日(新暦8月17日) アレッサンドロ・バリニャーノが口之津港へ来日する

<1581年(天正9)>
・2月23日(新暦3月27日) アレッサンドロ・バリニャーノとルイス・フロイスが織田信長に謁見する

<1582年(天正10)>
・1月28日(新暦2月20日) 天正遣欧使節が長崎港を出港する
・2月15日(新暦3月9日) マカオに到着し、風を待つ

<1583年(天正11)>
・11月7日(12月20日) マラッカ・コチンをへてインドのゴアに到着する

<1584年(天正12)>
・7月5日 (新暦8月10日) ポルトガルの首都リスボンに到着し、サン・ロッケ教会が宿舎となる
・10月23日(新暦11月25日) スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける

<1585年(天正13)>
・1月30日(新暦3月1日) スペインのマヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る
・2月1日(新暦3月2日) ピサに到着し、ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見する
・2月5日(新暦3月6日) カヴァリエーリ広場にあるサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会にて聖ステファノ騎士団を見学する
・2月6日(新暦3月7日) フィレンツェに到着し、シニョーリア広場にあるヴェッキオ宮殿に宿泊する
・2月10日(新暦3月11日) フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフで過ごす
・2月22日(新暦3月23日) ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられる
・4月2日(新暦5月1日) グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席する
・5月6日(新暦6月3日) ローマを出発し、以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問する

<1586年(天正14)>
・2月25日(新暦4月13日) ポルトガルのリスボンを出港し、帰途につく

<1587年(天正15)>
・4月23日(新暦5月29日) インドのゴアに到着し、ヴァリニャーノに再会、コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる
・5月6日(新暦6月11日) 豊後において大友宗麟が死去する
・5月18日(新暦6月23日) 長崎で大村純忠が死去する
・6月19日(新暦7月24日) 豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発布する

<1587年(天正18)>
・6月20日(新暦7月21日) 天正遣欧使節が帰国し、長崎港に到着する

<1587年(天正19)>
・閏1月8日(新暦3月3日) 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する
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 今日は、鎌倉時代の1219年(建保7)に、鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺された日ですが、新暦では2月13日となります。
 源実朝(みなもと の さねとも)は、鎌倉時代の1192年(建久3)8月9日に、鎌倉幕府初代将軍の父・源頼朝と母・北条政子の次男として生まれましたが、幼名を千幡(せんまん)と言いました。
 1199年(建久10) 父・源頼朝が薨去し、兄の頼家が第2代将軍となりましたが、1203年(建仁3)に兄頼家が廃されたため、数え年12歳で第3代将軍となり、実朝と称するようになります。1204年(元久元)に、後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とし、翌年、正五位下に叙され、加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられました。
 1205年(元久2)6月に畠山重忠の乱が起こり、続いて、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ、時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぐ(牧氏事件)こととなります。1209年(承元3)に、従三位になって公家に列すると、将軍家政所下文を発して政所に実権を集めました。
 1213年(建暦3)に和田義盛が兵を挙げ、幕府御所を囲み火を放ちましたたが、義盛が討たれ合戦(和田合戦)は終わります。
 一方で、天性の歌人で、藤原定家の指導を受けて『万葉集』、『古今和歌集』をはじめ、古来の和歌を研究して独自の歌風を大成し、万葉調の力強い歌を多く詠み、私歌集『金槐和歌集』を残しました。
 1218年(建保6)に右大臣となり、翌年(建保7)1月27日にその拝賀のため鶴岡八幡宮に詣でた社頭で、甥の公暁(くぎよう)に暗殺され、数え年28歳で亡くなりました。

〇『金槐和歌集』とは?

 鎌倉幕府第3代将軍源実朝著の私歌集で、鎌倉時代の1213年(建暦3)に成立したと考えられています。全1巻で、約700首を、春・夏・秋・冬・恋・雑に分類し、万葉調の力強い歌が多いのが特徴です。

<収載されている代表的な歌>

・「神風や 朝日の宮の 宮遷 かげのどかなる 世にこそ有りけれ」
・「いそのかみ ふるき都は 神さびて たたかにしあらや 人も通わぬ」
・「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめらも」
・「萩の花 くれぐれまでも ありつるが 月いでて見るに なきがはかなさ」
・「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」
・「大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも」

〇源実朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1192年(建久3)8月9日 鎌倉幕府初代将軍の父・源頼朝と母・北条政子の次男として生まれる
・1199年(建久10) 父・源頼朝が薨去し、兄の頼家が2代将軍となる
・1203年(建仁3)8月 2代将軍頼家が重病になり、関西38ヶ国の地頭職を譲られる
・1203年(建仁3)9月2日 2代将軍頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉される
・1203年(建仁3)9月7日 従五位下征夷大将軍に補任され、3代将軍に立てられる
・1203年(建仁3)10月8日 遠江国において数え年12歳で元服し、実朝と称する
・1204年(元久元) 後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とする
・1205年(元久2)1月5日 正五位下に叙される
・1205年(元久2)1月29日 加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる
・1205年(元久2)6月 畠山重忠の乱が起こる
・1205年(元久2)閏7月19日 時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る
・1205年(元久2)閏7月20日 時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぐ(牧氏事件)
・1207年(承元元)1月5日 従四位上に叙せられる
・1208年(承元2) 12月9日、正四位下に昇る
・1209年(承元3) 従三位になって公家に列すると、将軍家政所下文を発して政所に実権を集める
・1211年(建暦元)1月5日 正三位に昇る、
・1212年(建暦2)12月10日 従二位に昇る
・1213年(建暦3)5月 和田義盛が兵を挙げ、幕府御所を囲み火を放ったが、義盛が討たれ合戦は終わる(和田合戦)
・1213年(建暦3) 実朝の私歌集『金槐和歌集』が成立する
・1214年(建保2)5月7日 延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する
・1218年(建保6) 右大臣となる
・1219年(建保7)1月27日 鶴岡八幡宮社頭で甥の公暁(くぎよう)に暗殺される
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