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 今日は、江戸時代後期の1788年(天明8)に、京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起こった日ですが、新暦では3月7日となります。
 この大火は、1月30日早朝に鴨川の東、団栗辻子(どんぐりのづし)の民家から出火し、東からの強風にあおられて、南へ五条通りまで延焼、その間鴨川西岸に飛火し、市街地の大部分を焼き尽くし、二昼夜燃え続けて、2月2日朝にようやく鎮火しました。別名、団栗焼け(どんぐりやけ)、申年の大火(さるどしの たいか)、都焼け(みやこやけ)とも呼ばれています。
 この結果、『古久保家文書』によると、焼失した町数は1,424町余、36,797軒、65,340世帯、寺201、神社37、死者150とされ、御所や二条城、仙洞御所、京都所司代屋敷、東西両奉行所、摂関家の邸宅、東西の本願寺も焼失しています。
 光格天皇は御所焼失により、再建までの3年間、聖護院を仮御所とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院にそれぞれ移らざるを得ませんでした。江戸幕府は、急遽老中松平定信を京都に派遣して、朝廷とこの大火についての善後策を協議し、御所の再建を図っています。
 火災の影響で、京都の経済は大きな痛手をこうむり、京都の最先端技術が地方に拡散して伝えられる契機ともなりましたが、桐生の織物や銚子の醤油はその一例とされてきました。
 後世、江戸時代中に起きた、1708年(宝永5年3月8日)の「宝永の大火」、1864年(元治元年7月19日)の「元治の大火」と併せて、近世の「京都三大大火」と呼ばれるようになります。しかし、下記のように、江戸の大火と比べると被害は桁違いで、当時は江戸の方が人口が密集し、被害が甚大でした。

〇江戸時代の大火

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」