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 今日は、1293年(正応6)に、南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の生まれたとされている日ですが、新暦では3月8日となります。
 北畠親房(きたばたけ ちかふさ)は、村上源氏の流れを汲む名門の父・権大納言北畠師重と母・藤原隆重女の長男として生まれました。生後わずか半年で従五位下に叙爵、1308年(延慶元)に非参議従三位として公卿に昇進し、1310年(延慶3)に参議、翌年には左衛門督に任じられ検非違使別当を兼ねます。
 1318年(文保2)に後醍醐天皇が即位すると重用され、皇子世良親王の養育をゆだねられたほか、1320年(元応2)には淳和院別当に補せられ、1323年(元亨3)には、権大納言に昇進し、翌年大納言となりました。しかし、1330年(元徳2)の親王の薨去により、出家して宗玄 (のち覚空) と号します。
 1333年(正慶2/元弘3)建武の中興が成ると再び出仕し、子顕家とともに陸奥の経営に当たります。1335年(建武2)に北条氏の残党による中先代の乱の討伐に向かった足利尊氏が鎌倉でそのまま建武政権から離反すると、それを追って西上した顕家と共に1336年(延元1/建武3)上洛し、そのまま京都にとどまってふたたび国政に携わることとなりました。
 その後、足利尊氏の奏請により豊仁親王 (光明天皇) が即位したため、親房は後醍醐天皇を大和吉野に奉じて南朝をたてます。1338年(延元3/暦応元)に義良親王、次子顕信らと東国を回復するために出兵し、親房は常陸国小田城(現在の茨城県つくば市小田)に入りましたが、翌年後醍醐天皇が死去し、義良親王(後村上(ごむらかみ)天皇)が即位しました。
 小田城で、南朝の正統性を主張した『神皇正統記』と官制の沿革を述べた『職源鈔』を執筆したといわれています。同地方の経営に努めましたが北朝方に敗れ、1343年(康永2/興国4) に再び吉野に戻り、南朝の中心人物として活躍しました。
 幕府内部も分裂して観応の擾乱となり、1352年(正平7/文和元)に16年ぶりに入京を果たします。ところが、この政治情勢を永続させることができず都落ちし、1354年(文和3/正平9)4月17日に、山奥深い賀名生において、数え年62歳で亡くなりました。
 神・儒・仏の三学、故実に通じ、歌をよくし、著作も多く、他に、『元元集』、『東家秘伝』、『熱田本紀』などがあります。

〇北畠親房の主要な著作

・『元元集』(1337~38年頃)
・『神皇正統記』(1339年頃)
・『職原抄』
・『東家秘伝』
・『熱田本紀』