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 今日は、鎌倉時代の1219年(建保7)に、鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺された日ですが、新暦では2月13日となります。
 源実朝(みなもと の さねとも)は、鎌倉時代の1192年(建久3)8月9日に、鎌倉幕府初代将軍の父・源頼朝と母・北条政子の次男として生まれましたが、幼名を千幡(せんまん)と言いました。
 1199年(建久10) 父・源頼朝が薨去し、兄の頼家が第2代将軍となりましたが、1203年(建仁3)に兄頼家が廃されたため、数え年12歳で第3代将軍となり、実朝と称するようになります。1204年(元久元)に、後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とし、翌年、正五位下に叙され、加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられました。
 1205年(元久2)6月に畠山重忠の乱が起こり、続いて、時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ、時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぐ(牧氏事件)こととなります。1209年(承元3)に、従三位になって公家に列すると、将軍家政所下文を発して政所に実権を集めました。
 1213年(建暦3)に和田義盛が兵を挙げ、幕府御所を囲み火を放ちましたたが、義盛が討たれ合戦(和田合戦)は終わります。
 一方で、天性の歌人で、藤原定家の指導を受けて『万葉集』、『古今和歌集』をはじめ、古来の和歌を研究して独自の歌風を大成し、万葉調の力強い歌を多く詠み、私歌集『金槐和歌集』を残しました。
 1218年(建保6)に右大臣となり、翌年(建保7)1月27日にその拝賀のため鶴岡八幡宮に詣でた社頭で、甥の公暁(くぎよう)に暗殺され、数え年28歳で亡くなりました。

〇『金槐和歌集』とは?

 鎌倉幕府第3代将軍源実朝著の私歌集で、鎌倉時代の1213年(建暦3)に成立したと考えられています。全1巻で、約700首を、春・夏・秋・冬・恋・雑に分類し、万葉調の力強い歌が多いのが特徴です。

<収載されている代表的な歌>

・「神風や 朝日の宮の 宮遷 かげのどかなる 世にこそ有りけれ」
・「いそのかみ ふるき都は 神さびて たたかにしあらや 人も通わぬ」
・「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめらも」
・「萩の花 くれぐれまでも ありつるが 月いでて見るに なきがはかなさ」
・「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」
・「大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも」

〇源実朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1192年(建久3)8月9日 鎌倉幕府初代将軍の父・源頼朝と母・北条政子の次男として生まれる
・1199年(建久10) 父・源頼朝が薨去し、兄の頼家が2代将軍となる
・1203年(建仁3)8月 2代将軍頼家が重病になり、関西38ヶ国の地頭職を譲られる
・1203年(建仁3)9月2日 2代将軍頼家が比企氏の乱により伊豆に幽閉される
・1203年(建仁3)9月7日 従五位下征夷大将軍に補任され、3代将軍に立てられる
・1203年(建仁3)10月8日 遠江国において数え年12歳で元服し、実朝と称する
・1204年(元久元) 後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とする
・1205年(元久2)1月5日 正五位下に叙される
・1205年(元久2)1月29日 加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる
・1205年(元久2)6月 畠山重忠の乱が起こる
・1205年(元久2)閏7月19日 時政邸に在った実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れ渡る
・1205年(元久2)閏7月20日 時政は伊豆国修禅寺に追われ、執権職は義時が継ぐ(牧氏事件)
・1207年(承元元)1月5日 従四位上に叙せられる
・1208年(承元2) 12月9日、正四位下に昇る
・1209年(承元3) 従三位になって公家に列すると、将軍家政所下文を発して政所に実権を集める
・1211年(建暦元)1月5日 正三位に昇る、
・1212年(建暦2)12月10日 従二位に昇る
・1213年(建暦3)5月 和田義盛が兵を挙げ、幕府御所を囲み火を放ったが、義盛が討たれ合戦は終わる(和田合戦)
・1213年(建暦3) 実朝の私歌集『金槐和歌集』が成立する
・1214年(建保2)5月7日 延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する
・1218年(建保6) 右大臣となる
・1219年(建保7)1月27日 鶴岡八幡宮社頭で甥の公暁(くぎよう)に暗殺される