志賀潔(しが きよし)は、明治時代前期の1871年2月7日(明治3年12月18日)に、陸前国宮城郡仙台(現在の仙台市)に、仙台藩士だった父・佐藤信の次男として生まれましたが、初名は、佐藤直吉と言いました。1878年(明治11)に、母の生家で藩医だった志賀家に入り、潔と改名します。
第一高等中学校を経て、1892年(明治25)に帝国大学医科大学(後の東京帝国大学医学部)に入学しました。1896年(明治29) に大学卒業後、大日本私立衛生会伝染病研究所(北里柴三郎所長)に入所し、細菌学・免疫学の研究に従事します。
1897年(明治30)に、赤痢菌を発見し、「細菌学雑誌」に『赤痢病原研究報告第一』を日本語で発表、翌年には要約論文をドイツ語で発表し、一躍世界に知られました。1901年(明治34)にドイツ・フランクフルトに留学しパウル・エールリヒに師事、生物化学、免疫学、化学療法を研究します。
1905年(明治38)に帰国し、医学博士号を取得、1912年(明治45)に再度ドイツに渡り、パウル・エールリヒの下で研究します。帰国後は、伝染病研究所で活動しましたが、1914年(大正3)、伝染病研究所の文部省移管に際して北里所長と行動をともにして辞職、翌年、北里研究所創立とともに第四部長となりました。
1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任しましたが、同年には朝鮮総督府医院長・京城医学専門学校校長兼任となり、以後、京城帝国大学教授、同医学部長、同総長を歴任し、1931年(昭和6)に退任して東京に戻ります。北里研究所顧問となりましたが、1936年(昭和11)に錦鶏之間祗候(勅任官待遇)となり、1944年(昭和19)に文化勲章を受章しました。
翌年の東京大空襲で被災し、仙台市へ疎開、太平洋戦争後、1948年(昭和23)に日本学士院会員となります。1949年(昭和24)からは、宮城県亘理郡坂元村の別荘(貴洋翠荘)に居住しましたが、1957年(昭和32)1月25日に同地において、老衰により86歳で亡くなりました。
〇志賀潔の主要な著作
・『細菌学及免疫学』(1923年)
・『パウル・エールリッヒ伝』(1941年)
・『貴洋翠荘閑話(きようすいそうかんわ)』(1950年)
・『ある老科学者とせがれとの対話』(1953年)
・『或(あ)る細菌学者の回想』(1966年)