火野葦平(ひの あしへい)は、明治時代後期の1907年(明治40年)1月25日に、福岡県若松市(現在の北九州市若松区)で、沖仲仕「玉井組」を営んだ父・玉井金五郎の長男(母・マン)として生まれましたが、本名は玉井勝則と言いました。
小倉中学校(現在の県立小倉高等学校)に入り、文学に興味を持ち、第一高等学院へ進学後、童話集『首を売る店』(1924年)を自費出版します。1926年(大正15)に、早稲田大学英文科に入学、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌『街』を創刊して小説や詩を発表しました。
1928年(昭和3)2月、兵役で福岡第24連隊に入営し、大学を中退することとなります。除隊後は家業の沖仲仕玉井組を継ぎ、その一方で沖仲仕の労働組合を結成して労働運動に関わりました。
1932年(昭和7)に検挙されて転向し、地元の同人詩誌『とらんしつと』で文学活動を再開し、1934年(昭和9年)には、筆名を火野葦助から火野葦平にあらためます。1937年(昭和12)に日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』が第6回芥川賞を受賞しました。
戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て、続く『土と兵隊』、『花と兵隊』の三部作となります。帰還後は、中野実ら従軍芸術家と「文化報国会」を結成、兵隊作家とよばれて人気を博し、太平洋戦争中は報道班員として活躍しました。
戦後は、戦争協力者として公職追放を受け、1950年(昭和25)に解除されます。その後、『赤道祭』(1951年)、『花と竜』(1952~53年)、『革命前後』(1959年)などを執筆しましたが、1960年(昭和35)1月24日に、福岡県若松市において、52歳で睡眠薬自殺をしました。没後の5月に、『革命前後』および生前の業績により、日本芸術院賞を受賞しています。
尚、1960年(昭和35)に、故郷の北九州市若松区の若松市民会館内に火野葦平資料館が設置され、1999年(平成11)には旧居・河伯洞が改修されて公開されました。
〇火野葦平の主要な著作
・童話集『首を売る店』(1924年)
・詩集『山上軍艦』(1937年)
・『糞尿譚』(1937年) 芥川賞受賞
・『麦と兵隊』(1938年)
・『土と兵隊』(1938年)
・『花と兵隊』(1938~39年)
・詩集「青狐」(1943年)
・『青春と泥濘(でいねい)』(1950年)
・『赤道祭』(1951年)
・『花と竜』(1952~53年)
・『紅い国の旅人』(1955年)
・『革命前後』(1959年)芸術院賞受賞