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 今日は、江戸時代前期の1657年(明暦3)に、江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の亡くなった日ですが、新暦では3月7日となります。
 林羅山(はやし らざん)は、安土桃山時代の1583年(天正11)8月に、京都四条新町で、加賀国の郷士の末裔で浪人だった父の子として生まれましたが、本名は信勝と言いました。
 1595年(文禄4)に臨済宗の建仁寺に入って、大統庵の古澗慈稽に、次に十如院の英甫永雄に就いて、儒学と仏教を学びます。1597年(慶長2)に家に戻ってからはもっぱら儒書に親しみ、朱子の章句、集注を研究して、朱子学(宋学)に傾倒していきました。
 1604年(慶長9)に、角倉素庵の仲介で藤原惺窩と出会い、論争後、その門に入ります。1607年(慶長12)惺窩の推挙で、徳川家康に仕え、以後秀忠、家光、家綱と4代の将軍の侍講を勤めました。
 その中で、儀式・典礼の調査、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの制定や『寛永諸家系図伝』、『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草に関与し、幕政の整備に貢献します。
 また、1630年(寛永7)に上野忍岡に私塾・文庫と孔子廟を建てて、のち官学となった昌平坂学問所(昌平黌)の学問の礎を築きました。朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となります。
 『三徳抄』、『大学解』、『神道伝授』、『本朝神社考』、『羅山文集』など多くを著しましたが、1657年(明暦3)に、江戸において、数え年75歳で亡くなりました。

〇林羅山の主要な著作

・『大学抄』
・『大学解』
・『論語解』
・『三徳抄』
・『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』
・『丙辰紀行』
・『寛永諸家系図伝』
・『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629年)
・『性理字義諺解(げんかい)』
・『林羅山先生詩集・文集』
・『本朝神社考』(1638~45年成立)
・『神道伝授』(1644~47年)
・『神道秘伝折中俗解』