共同印刷争議(きょうどういんさつそうぎ)は、共同印刷株式会社の操業の短縮と短縮分賃金カット発表に端を発して、日本労働組合評議会の指導の下に、関東出版労働組合加盟の労働者約2,000人がストライキに突入したものでした。
同社の労働者は関東出版労働組合(日本労働組合評議会加盟)の中心として、様々な運動を展開していましたが、会社側はその勢力一掃を企て、1926年(大正15)1月に経費節減の名目で250人の操業半減を命じ、短縮分賃金カットを発表します。
これに対し、労働組合側は1月19日にストライキを決議し、翌日より労働者の大半の約2,000人がストライキに突入しましたが、経営者側は、工場を閉鎖し、全員解雇を通達して対抗しました。労働組合側は、会社・官憲の弾圧と切崩しに抗するため、秘密指導部を設け、細胞を組織し、他組合の支援をうけなどの闘争戦術をもって抵抗します。
しかし、会社は暴力団や臨時職工を工場に入れて作業の再開を図るなど、労使の激突となり、検束者延べ1,500名、拘留者延べ500名を出し、争議団から生活困窮による脱落者・就業者も現れて、労働者の足並みが乱れます。その結果、3月18日に、争議団全員1,180人の解雇を認め、退職金12万円、争議費用1万円、再雇用200人などの条件でストライキ終結のやむなきに至りました。会社側も事業を半減せざるを得なくなるなどの大きな打撃を受けています。
共同印刷の労働者で争議に参加していた徳永直は、この時の体験を1929年(昭和4)の『戦旗』6月号から11月号まで、小説『太陽のない街』として発表、プロレタリア文学の代表作の一つとなりました。翌年、小野宮吉脚色、村山知義演出で舞台化、築地小劇場で初演され、太平洋戦争後の1954年(昭和29)には、日高澄子主演、山本薩夫監督により映画化もされています。
〇戦前の主要な労働争議(ストライキ)一覧
・1907年(明治40)2月 足尾銅山争議
・1911年(明治44)12月~ 東京市電争議 6,000人参加
・1917年(大正6)6月 三菱長崎造船所争議
・1920年(大正9)2月 八幡製鉄所争議 2万数千人参加
・1920年(大正9)6~8月 三菱・川崎造船所争議 3万八千人参加
・1925年(大正14)12月~ 別子銅山争議 約1,400人参加
・1926年(大正15)1~3月 共同印刷争議(60日間)約2,000人参加
・1926年(大正15)4月~ 浜松の日本楽器争議(105日間)約1,200人参加
・1927年(昭和2)4月~ 野田醤油労働争議(216日間)約1,400人参加
・1927年(昭和2)8月~ 山一林組製糸争議 約1,300人参加
・1930年(昭和5)春 鐘紡争議
・1930年(昭和5)9月 東洋モスリン亀戸工場争議 約2,500人参加
・1932年(昭和7)3月 東京地下鉄争議