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 今日は、鎌倉時代の1215年(建保3)に、鎌倉幕府初代執権北条時政の亡くなった日ですが、新暦では2月6日となります。
 北条時政(ほうじょう ときまさ)は、平安時代後期の1138年(保延4)に、伊豆国田方郡北条 (現在の静岡県伊豆の国市) で、伊豆国の在庁官人の父・北条時方と母・伴為房の娘との間に生まれましたが、通称を四郎と言いました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、源頼朝が翌年に伊豆国に流されると、それを監視する役目となります。ところが、1177年(治承元)に、ひそかに娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許しました。
 1180年(治承4)8月に、頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助けますが、同月の相模国石橋山の戦いで敗れ、逃走中に嫡男の宗時を殺されます。しかし、次子義時とともに海を渡って安房国に逃れ、頼朝の到着を迎えました。
 その後、頼朝の命を受けて甲斐へ行き、武田信義らを味方につけ、甲斐,信濃の源氏を誘って、頼朝の本隊に合流、同年10月の富士川の戦いでの勝利に貢献します。
 1182年(寿永元)、政子に孫の頼家が生まれたことから、頼朝の外威として重要な役割を担いました。1185年(文治元)には、頼朝の代官として、義経追討のため大軍を率いて入京し、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせる「文治の勅許」を得、鎌倉幕府成立に貢献しています。
 1199年(正治元)に頼朝が亡くなると、政子と共に第2代将軍頼家を補佐して幕府政治を主導し、1200年 (正治2) には従五位下、遠江守となりました。
 1203年(建仁3)に比企能員を殺して2代将軍頼家を廃し、その弟実朝を第3代将軍とし、みずからは初代執権となり、幕政の実権を握ります。
 1205年(元久2)に女婿平賀朝雅を将軍にしようとして失敗、伊豆に隠退して出家しました。その地で、1215年(建保3)1月6日に、数え年78歳で亡くなっています。

〇北条時政関係略年表(日付は旧暦です)

・1138年(保延4) 伊豆国田方郡北条の在庁官人の父・北条時方と母・伴為房の娘との子として生まれる
・1160年(平治2) 平治の乱に敗れて、源頼朝が伊豆国に流されると、その監視役となる
・1177年(治承元) ひそかに娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許す
・1180年(治承4)4月27日 平氏を討てとの以仁王の令旨が頼朝の館にもたらされる
・1180年(治承4)8月17日 頼朝の挙兵を助け、伊豆の目代山木兼隆を討つ
・1180年(治承4)8月23日 相模国石橋山の戦いで敗れ、逃走中に嫡男の宗時を殺される
・1180年(治承4)8月28日 真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出する
・1180年(治承4)9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4)10月13日 甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻する(鉢田の戦い)
・1180年(治承4)10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音て敗走する
・1180年(治承4)11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4)12月12日 鎌倉に新造の大倉亭で移徙の儀が行なわれ、時政も他の御家人と共に列する
・1184年(元暦元)1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・1184年(元暦元)2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1184年(元暦元)10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する
・1185年(文治元)2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(文治元)3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(文治元)11月24日 頼朝の代官として義経追討の大軍を率いて入京、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせる
・1189年(文治5)6月6日 奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立する
・1194年(建久5)11月1日 伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰する
・1199年(正治元)1月 頼朝が亡くなると、政子と共に第2代将軍頼家を補佐して幕府政治を主導する
・1200年(正治2)4月 従五位下、遠江守となる
・1203年(建仁3)9月2日 比企能員を自邸に呼び出して謀殺、比企一族を滅ぼす(比企能員の変)
・1203年(建仁3)9月7日 第2代将軍頼家を廃し、その弟実朝を第3代将軍とする
・1203年(建仁3)10月9日 大江広元と並んで政所別当に就任、初代執権となる
・1204年(元久元)3月6日 息子の義時が相模守に任じられる
・1205年(元久2)6月 娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受け、重忠を謀反の罪で滅ぼす(畠山重忠の乱)
・1205年(元久2)閏7月 女婿平賀朝雅を将軍にしようとして失敗、伊豆に隠退して出家する
・1215年(建保3)1月6日 伊豆において、数え年78歳で亡くなる