楠木正行(くすのき まさつら)は、生年は不詳ですか、南北朝時代の有力武将である楠木正成の長男として生まれ、初名は正之と伝えられてきました。楠木正成が「大楠公」と尊称されたのに対して「小楠公(しょうなんこう)」とも呼ばれています。
『太平記』によると、1336年(延元元/建武3)に正成が摂津国湊川に出陣する際に、桜井駅(摂津国三島郡)で正行と別れたと記されました。同年(延元元年/建武3)5月25日に、湊川の戦いにおいて、足利尊氏の軍に敗れて、父の正成が自害しています。
その後、楠木氏の本拠南河内で成長したとみられますが、南朝方に属して楠木一族を率いて忠勤し、河内守兼摂津守に任じられました。
1347年(正平2/貞和3)に南朝の中心的な人物の北畠親房の主戦論が主流となると、正行も東国、鎮西の南朝軍と共に兵を起こします。9月には細川顕氏を河内藤井寺、教興寺に破り、11月には山名時氏、細川顕氏らを摂津住吉、天王寺に破り、京都まで敗走させました。
足利尊氏が高師直、師泰の大軍を河内に差し向けると正行は弟正時、和田賢秀らを率いて吉野の行宮に詣で、12月27日に如意輪寺の壁に「返らじとかねて思へば梓弓,なき数にいる名をぞとどむる」と詠じて一族の名を書き連ね、戦場に向ったとされています。しかし、翌年1月5日に、南下する高師直軍と河内国四条畷(現在の大阪府四条畷市)で戦って敗れ、弟正時と刺し違えて自決しました。
そこに楠塚と呼ばれる楠木正行の墓があったのですが、幕末・明治維新期になって、尊王論が高揚してくると、楠木氏の顕彰が盛んになり、1878年(明治11)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大しています。さらに、1889年(明治22)に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌年に住吉平田神社の南隣の地に創建しましたが、「小楠公御墓所」から、1km余りの場所でした。