檀一雄(だん かずお)は、明治時代後期の1912年(明治45)2月3日に、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷)で、山梨県立工業学校の図画教員の父・檀参郎と母・とみの長男として生まれました。
1914年(大正3)、父が退職したため福岡へ戻り、福岡高等学校文科乙類を経て、1932年(昭和7)に上京し、東京帝国大学経済学部に入学します。
在学中の1933年(昭和8)、同人誌『新人』を創刊、処女作『此家(このいえ)の性格』を発表し、尾崎一雄らに認められ、太宰治や坂口安吾らの知遇を得ました。また、佐藤春夫に師事し、太宰治、中原中也、森敦らと『青い花』を創刊、1935年(昭和10)、『日本浪曼派』に合流しました。
同年大学卒業後、『夕張胡亭塾(ゆうばりこていじゅく)景観』が第2回芥川賞候補となり、1937年(昭和12)に『文藝春秋』に出世作『花筐』を発表します。その年に応召され、大陸へ出征、軍務終了後中国東北部を放浪しましたが、1944年(昭和19)に『天明』で野間文芸奨励賞を受賞しました。
太平洋戦争後、妻の死をえがいた『リツ子・その愛』、『リツ子・その死』(1948~50年)が好評を博し、『長恨歌』、『真説・石川五右衛門』で、1950年度下期の第24回直木賞を受賞します。
それからは、流行作家として活躍し、『ペンギン記』(1952年)、『夕日と拳銃』(1955~56年)、『光る道』(1956年)などを書きました。晩年には、『火宅(かたく)の人』(1955~75年)を完成させ、第27回読売文学賞・第8回日本文学大賞を受賞します。しかし、1976年(昭和51)1月2日に、福岡において、63歳で亡くなりました。
尚、女優の檀ふみは長女、エッセイストの檀太郎は長男です。
〇檀一雄の主要な著作
・『此家(このいえ)の性格』(1933年)
・『夕張胡亭塾(ゆうばりこていじゅく)景観』(1935年)第2回芥川賞候補
・『花筐(はながたみ)』(1937年)
・『衰運』
・詩集『虚空象嵌(こくうぞうがん)』(1939年)
・『天明』(1944年)第4回野間文芸奨励賞
・『長恨歌』(1950年)第24回直木賞
・『真説・石川五右衛門(ごえもん)』(1950~51年)第24回直木賞
・『リツ子・その愛』(1948~50年)
・『リツ子・その死』(1948~50年)
・『ペンギン記』(1952年)
・『夕日と拳銃(けんじゅう)』(1955~56年)
・『光る道』(1956年)
・『わが青春の秘密』(1960年)
・『青い雲』(1969~70年)
・『火宅(かたく)の人』(1955~75年)第27回読売文学賞・第8回日本文学大賞