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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、最大の地租改正反対一揆である「伊勢暴動」が起きた日です。
 これは、地租改正事業に反対した明治期最大の農民一揆で、三重県を中心に愛知・岐阜・堺各県に及びました。
 1876年(明治8)11月の石代相場の引下げ要求から端を発し、12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)の農民が戸長らに申し入れましたが埒が明かなかったのです。それで、各村の戸長が租税を取り立てるため、豊原村(現在の松阪市豊原町)で開かれる戸長会へ出かけた留守の隙に、農民が集合し、12月19日についに蜂起するに至りました。
 この動きは、三重県下のほとんど全域に拡大し、愛知・岐阜・堺各県に波及します。当初の嘆願行動は、打ち壊しや焼き打ち行動に激化し、地租改正に関係する役所や屋敷に及びました。
 県と政府は、士族を徴募し鎮台兵をも出動させて鎮圧にあたり、ようやく12月24日には完全に抑え込まれます。これによる処罰は、絞首刑1人を含め受刑者50,773人に上りました。
 地租改正に反対する一揆は、茨城一揆など各地で起き、翌年政府は地租を地価の3%から2.5%に引き下げることになります。
 これについて、「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と歌われたりしました。

〇地租改正(ちそかいせい)とは?

 明治時代前期に、明治政府が実施した土地・租税制度の改革のことです。まず、1872年(明治5)に田畑売買禁止令を解き地券を発行し、1873年(明治6)7月28日には、「太政官布告第272号」と「地租改正条例」を発しました。
 その主要な内容は、 (1) 課税標準を従来の収穫量から地価に改める、(2) 税率は100分の3をもって、豊凶に関係なく定率とする、(3) 物納を廃し、すべて金納として、土地所有者に課税するというものだったのです。
 しかし、今までの税収を減らさないことを基本としたので、地価は高めに設定され、農民には重い負担となりました。
 その結果、1876年(明治9)には、各地で地租改正反対一揆が起き、明治政府は、翌年から地租率を100分の2.5に引き下げる譲歩を行うことになったのです。
 これらの改革によって、明治政府の財政的基礎が確立した一方で、地主・小作の関係は強化されました。