ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年11月

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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着した日です。
 ララ物資(ララぶっし)は、アジア救援公認団体の英語表記: Licensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字を取って「LARA」と略称した団体による日本向けの援助物資のことでした。
 この団体は、アメリカ合衆国連邦政府の救済統制委員会(アメリカ合衆国大統領直轄の機関)が、1946年(昭和21)6月に設置を認可した日本向け援助団体で、アメリカの宗教団体や慈善団体など15団体(一説では13団体)から成っています。
 同年6月に、ララ代表が来日し、日本政府とGHQとを相手に救援プログラムの運営についての交渉を開始し、8月30日には、「ララ救援物資受領並配分に関する連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の日本帝国政府に対する覚書」(SCAPIN1169)が出され、9月20日に、GHQに対する日本政府の回答として「ララ救援物資受領及配分に関する一般計画の件」が出されて実現に向けて動き出しました。
 その結果、11月30日に、第一便 (ハワード・スタンズペリー号) として、ミルク・米の粉・バター・ジャム・缶詰・衣服・靴類の計450トンが横浜港に到着します。
 12月には、最初に東京都、神奈川県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、広島県、長崎県の福祉施設486施設に物資が配分され、翌年1~2月には、第2回として、8都府県に古着、和歌山・高知・徳島県への南海地震災害者救済、東京都、神奈川、千葉両県における『学校給食』に、3~4月には、第3回として、12道県の242施設に収容されていた幼児、子ども、結核患者等と他の17県内の253施設に食品が配分されました。
 その後、順次支援物資が分配されていき、1952年(昭和27)6月に終了するまで、16,000トン以上の物資が届きましたが、ミルク類、穀物、缶詰、バターやジャムなどの食料品をはじめ、衣類、医薬品、靴、石けん、学用品、乳牛やヤギなどにも及びます。その割合は、食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となり、食糧が圧倒的に多く、次いで衣料となっていましたが、当時の金額で400億円(内20%が海外在住の日本人から)という莫大なものでした。
 戦後日本の学校給食の脱脂粉乳も、「ララ物資」によるものです。

〇「ララ物資」に関わった15団体

・教会世界奉仕団(The Church World Service)
・アメリカ・フレンズ奉仕団(The American Friends Service Committee)
・カソリック戦時救済奉仕団(The Catholic War Relief Service)
・ルーテル世界救済団(Lutheran World Relief)
・メンノママナイト中央委員会(Mennonite Central Committee)
・カナダ教会会議(Canadian Council of Churches)
・アメリカ労働総同盟(AFL)
・産業別組合会議(CIO)
・ブレズレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)
・ユニテリアン奉仕委員会(Unitarian Service Committee)
・クリスチャン・サイエンス奉仕委員会(Christian Science Service Committee)
・アメリカ・ガール・スカウト(Girl Scouts of the United States)
・救世軍(Salvation Army)
・YMCA
・YWCA

〇GHQに対する日本政府の回答「ララ救援物資受領及配分に関する一般計画の件」 1946年(昭和21)9月20日

A 計量に関する計画
1 在横浜8軍の手によって封印された物資を、厚生省代表は受領の上、受領証をララ代表に手渡す。
2 日本政府は、倉庫保管の物資・厚生省より地方に輸送された物資および消費団体の受領した物資の物品目録を保管す。
3 日本政府は倉庫責任者・地方長官および消費団体長より提出の受領証を厚生省をして整理保管せしめ、随時総司令部およびララの閲覧に供す。
4 日本政府は埠頭および倉庫において受領した物品・地方に輸送した物品および消費団体の受領した物品の経理簿を保管す。

B 保管に関する計画
 倉庫は横浜市内にある三井物産株式会社のものを確保した。東京向けの大量物資の保管用倉庫は東京都内で之を確保し、地方において倉庫を必要とする場合は、厚生省は各都道府県を通じて之を確保し得る見込み十分である。

C 配分に関する計画
1 配分は国籍・宗教宗派・政党政派に捉われず必要性を基準として公平に行ない、扶養者なき乳幼児および児童・戦災者・引揚者等を収容する公私の社会事業施設その他承認を俟って今後計画すべき対象者に対して、配分するものとす。
2 輸送は運輸省及び民間輸送会社に依頼する。
3 運輸省は、厚生省の求めに応じて、東京及び横浜以外の地区に急速輸送を行なうため、貨車の優先配車をなすものとす。
4 各地区に於ける消費団体迄の輸送は、トラックその他を使用す。

D 警備に関する計画
 鉄道警備員が、物資の貨車荷役中及び鉄道輸送中の監視に任ず。倉庫保管中及びトラック運搬中は、十分なる警備を行なう。物資の詐取・盗難・不法消費に対しては、終始万全を期するよう努力す。

☆「ララ物資」関係略年表

<1946年(昭和21)>
・6月 アメリカ合衆国連邦政府の救済統制委員会がララの設置を認可する
・6月 ララ代表が来日し、日本政府とGHQとを相手に救援プログラムの運営についての交渉を開始する
・6月21日 厚生省社会局長へララ代表から救援の申し入れがなされる
・7月8日 ララの3代表とGHQの6名、厚生省の14名が日本側の適当な受入態勢・配分先・希望する品名等の一般的な討議を開始する
・8月30日 「ララ救援物資受領並配分に関する連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の日本帝国政府に対する覚書」(SCAPIN1169)が出される
・9月20日 GHQに対する日本政府の回答として「ララ救援物資受領及配分に関する一般計画の件」が出される
・11月30日 第一便 (ハワード・スタンズペリー号) としてミルク・米の粉・バター・ジャム・缶詰・衣服・靴類の計450トンが横浜港に到着する
・12月 最初に東京都、神奈川県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、広島県、長崎県の福祉施設486施設に物資が配分される
・12月24日 東京都・千代田区立永田町小学校(現在の千代田区立麹町小学校)において贈呈式を実施する

<1947年(昭和22)>
・1~2月 第2回として、8都府県に古着、和歌山・高知・徳島県への南海地震災害者救済、東京都、神奈川、千葉両県における『学校給食』に配分される
・3~4月 第3回として、12道県の242施設に収容されていた幼児、子ども、結核患者等と他の17県内の253施設に食品が配分される
・7月31日 国会・衆議院本会議において感謝決議(救援物資の寄贈に関し亜細亜救援公認團体に対する感謝決議)を全会一致で可決する

<1948年(昭和23)>
・ 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300ヶ所の保育所で「ララ物資」による給食が開始する

<1949年(昭和24)>
・10月20日 「ララ救援物資の受領並配分に関する覚書」(SCAPIN2054)が出され、GHQの統制の緩和が打ち出される

<1950年(昭和25)>
・4月1日 この日以降GHQの統制が大幅に緩和される

<1952年(昭和27)>
・6月 「ララ物資」が終了する
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 今日は、1890年(明治23)に、「大日本帝国憲法」が施行され、第1回帝国議会が開会した日です。
 帝国議会は、「大日本帝国憲法」施行によって設置された立法機関で、貴族院と衆議院の二院から成っていました。前者は皇族・華族・勅任議員によって、後者は公選議員によって構成され、1890年(明治23)11月29日開会の第1回議会から、1947年(昭和22)3月の第92議会解散まで続きましたが、「日本国憲法」施行とともに国会に改変されます。
 議会の開設については、明治維新後に出された「五箇条の御誓文」の一つに「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と定めて以来、下ノ議事所、下局、公議所、集議院、太政官左院などを経て、1875年(明治8)には元老院を設置して立法の審議などが行われてきましたが、これらはいずれも公選議員により組織されたものではありませんでした。
 その中で自由民権運動が起き、1874年(明治7)に板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らは、「民撰議院設立の建白書」を出して、速やかに民選議会を開設するべきことを主張し、全国に広がります。
 1881年(明治14)10月12日に、政府は「国会開設の勅諭」を発して、1890年(明治23)に憲法を制定し議会を開設することを約束しました。
 その後、1889年(明治22)2月11日の「大日本帝国憲法」と「衆議院議員選挙法」(明治22年2月11日法律3号)の公布によって、翌年に貴族院の互選・勅撰と第1回衆議院選挙(25歳以上で直接国税15円以上納めている男子による制限選挙)が実施されて、議員が決められ、第1回帝国議会の開催へと至ります。
 衆議院は予算先議権以外は貴族院と対等で、憲法の改正を議決し、各種の国法の成立に参与し、緊急勅令についてはその成立後に承諾を与え、予算超過支出や予算外支出に対して承諾を与えるなどの権限を持っていました。しかし、天皇の大権は強大で、議会の召集・開会・閉会・停会・衆議院解散や重要事項については天皇の大権事項に属し、内閣や枢密院、元老によっても活動を規制され、議会の権能は著しく制限され、天皇制の一機関であることにとどまりました。
 大正時代に政党内閣制の慣行も生まれたが、昭和時代に入って軍部の台頭とともに議会の地位は下がっていき、1932年(昭和7)の五・一五事件以後政党内閣制が否定され、政府の実権は軍部や官僚が掌握し、1938年(昭和13)の「国家総動員法」の制定により、その地位は著しく低下します。さらに、1942年(昭和17)に、政府、軍部の統制下にある翼賛政治体制協議会が定員と同数の推薦候補を決定するという状況に至って、議会の存在は有名無実なものとなりました。
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(太政官布告第379号)が出された日ですが、新暦では12月28日となります。
 これは、明治政府により公布され、古代の兵制を援用し、四民平等の原則にもとづく国民皆兵を定めた太政官布告でした。
 これに基づいて、翌年1月10日に「徴兵編成並概則(徴兵令)」が公布され、全国に六鎮台を置き、六軍管区に分けられ、満20歳以上の男子は徴兵検査を受け、3年間兵役に服する常備軍、常備軍終了後2年間は後備軍として平常は家業に従事させることになります。しかし、官吏、官立学校生徒、戸主、代人料270円の納入者などの兵役を免除する広範な免役条項が存在していました。
 一方、庶民は重い負担となる徴兵制の実施に激しく反対し、「徴兵告諭」の中の「血税」「生血ヲ以テ」という表現が、実際に血をとることだと誤解されたこともあり、各地にいわゆる「血税一揆」(明治6年に56件、7年に21件)が起こります。
 その後も、逃亡やさまざまな形での徴兵忌避が後を絶ちませんでしたが、1879年(明治12)に全面改訂され、1889年(明治22)の本格的改正で免役規定を全廃し、徴兵忌避者に対する罰則(1か月以上1年以下の重禁錮、3円以上30円以下の罰金)が設けられ、国民皆兵の原則が確立されました。
 さらに、同年2月に公布された「大日本帝国憲法」では、兵役が「日本臣民」の義務であると定められ、何度かの改正を経て、1927年(昭和2)4月1日には、これに代って「兵役法」が制定されます。


〇「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」(明治5年太政官布告第379号)

今般全國募兵ノ儀別紙 詔書ノ通リ被 仰出徴兵令相定候條各 御趣意ヲ奉戴シ末々ニ至ル迄不洩樣布達可致總シテ細大ノ事件ハ陸軍海軍兩省ヘ打合可申此旨相達候事
但徴兵令及徴募期限ハ追テ可相達事

(別紙)

詔書寫

朕惟ルニ古昔[1]郡縣ノ制全國ノ丁壯[2]ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵權武門ニ歸シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新[3]ハ實ニ千有餘年來ノ一大變革ナリ此際ニ當リ海陸兵制モ亦時ニ從ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各國ノ式ヲ斟酌[4]シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ吿諭セヨ

明治五年壬申十一月二十八日

徴兵告諭

我 朝上古ノ制[5]海內[6]擧テ兵ナラサルハナシ有事ノ日 天子之カ元帥トナリ丁壯[2]兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ歸レハ農タリ工タリ又商賣[7]タリ固ヨリ後世ノ雙刀ヲ帶ヒ武士ト稱シ抗顏坐食[8]シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル[9]者ノ如キニ非ス抑 神武天皇珍彥ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後軍團ヲ設ケ衞士防人ノ制ヲ定メ神龜天平ノ際ニ至リ六府二鎭ノ設ケ始テ備ル保元平治以後朝綱頽弛兵權終ニ武門ノ手ニ墜チ國ハ封建ノ勢ヲ爲シ人ハ兵農ノ別ヲ爲ス降テ後世ニ至リ名分全ク泯沒シ其弊勝テ言フ可カラス然ルニ太政維新列藩版圖ヲ奉還[10]シ辛未ノ歲ニ及ヒ遠ク郡縣ノ古ニ復ス[11]世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ[12]刀劍ヲ脱スルヲ許シ[13]四民漸ク自由ノ權ヲ得セシメントス是レ上下ヲ平均シ人權ヲ齊一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ從前ノ士ニ非ス民ハ從前ノ民ニアラス均シク 皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ稅アラサルハナシ以テ國用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ盡シ國ニ報セサルヘカラス西人[14]之ヲ稱シテ血稅[15]ト云フ其生血ヲ以テ國ニ報スル[16]ノ謂ナリ且ツ國家ニ災害アレハ人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス是故ニ人々心力ヲ盡シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ苟モ國アレハ則チ兵備アリ兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス是ニ由テ之ヲ觀レハ民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ偶然作意ノ法ニ非ス然而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス西洋諸國數百年來研究實踐以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ其法極メテ精密ナリ然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス故ニ今其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ海陸二軍ヲ備ヘ全國四民男兒二十歲ニ至ル者ハ盡ク兵籍ニ編入[17]シ以テ緩急ノ用[18]ニ備フヘシ鄕長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ說諭シ國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也

明治五年壬申十一月二十八日

   *注:一部漢字表記を改めてあります

【注釈】

[1]古昔:こせき=むかし。いにしえ。往昔。
[2]丁壯:ていそう=壮年の男子。
[3]戊辰ノ一新:ぼしんのいっしん=明治維新のこと。
[4]斟酌:しんしゃく=条件などを考え合わせて、適当に取捨選択すること。
[5]上古ノ制:じょうこのせい=律令制における兵制のこと。
[6]海内:かいだい=国内。
[7]商賣:しょうこ=商人のこと。
[8]抗顏坐食:こうがんざしょく=傍若無人で、働かないで食べている。
[9]人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル:ひとをころしかんそのつみをとはざる=「切り捨て御免」の特権のこと。
[10]太政維新列藩版圖ヲ奉還:たいせいいしんれっぱんはんとをほうかん=版籍奉還のこと。
[11]郡縣ノ古ニ復ス:ぐんけんのいにしえにふくす=廃藩置県のこと。
[12]世襲坐食ノ士ハ其祿ヲ減シ:せしゅうざしょくのしはそのろくをへらし=禄制改革で俸禄が減らされたこと。
[13]刀劍ヲ脱スルヲ許シ:とうけんをだっするをゆるし=1871年(明治4)の脱刀許可のこと。
[14]西人:せいじん=西洋人のこと。
[15]血税:けつぜい=この文字により生き血を採られることと誤解し、いわゆる「血税一揆」が起きたとされる。
[16]其生血ヲ以テ國ニ報スル:そのせいけつをもってくににほうする=兵士となって国に奉仕するという意味。
[17]男兒二十歲ニ至ル者ハ盡ク兵籍ニ編入:だんじにじゅっさいにいたるものはことごとくへいせきにへんにゅう=男子20歳に達したものが徴兵された。
[18]緩急ノ用:かんきゅうのよう=国家の危急。

<現代語訳>

 今回、全国募兵の件に付き、別紙の詔書の通り徴兵令が仰せ出され、その定めるところの条々、各々天皇の趣意を戴き、下々の者に至るまで遺漏なきように公布しなさい。全体として詳細は陸軍・海軍両省と打ち合わせをしなさい。この趣旨を通達する。
 ただし、徴兵令および徴募期限については追って通達するべきものとする。

(別紙)

詔書の写し

 私(明治天皇)が考えるに、往昔は郡県の制度により、全国の壮年の男子を募って、軍団を設置し、それによって国家を守ることは、もとより武士・農民の区別がなかった。中世以降、兵は武士に限られるようになり、兵農分離が始まって、ついに封建制度を形成するようになる。明治維新は、実に2千有余年来の一大変革であった。この際にあたり、海軍・陸軍の兵制もまた時節に従って、変更しないわけにはいかない。今日本の往昔の兵制に基づいて、海外各国の兵制を斟酌し、全国から兵を徴集する法律を定め、国家を守る基本を確立しようと思う。おまえたち、多くのあらゆる役人は手厚く、私(明治天皇)の意志を体して、広くこれを全国に説き聞かせなさい。

 明治5年(壬申)11月28日

徴兵告諭

 わが国古代の兵制では、国をあげて兵士とならなかったものはいなかった。有事の際は、天皇が元帥となり、青年壮年兵役に耐えられる者を募り、敵を征服すれば兵役を解き、帰郷すれば農工商人となった。もとより後世のように両刀を帯びて武士と称し、傍若無人で働かずに生活をし、甚だしい時には人を殺しても、お上が罪を問わないというようなことはなかった。そもそも、神武天皇は珍彦を葛城の国造に任命し、以後軍団を設け衛士・防人の制度を始めて、神亀天平の時代に六府二鎮を設けて備えがなったのである。保元の乱・平治の乱以後、朝廷の軍規が緩み、軍事権は武士の手に落ち、国は封建制の時代となって、人は兵農分離とされた。さらに後世になって、朝廷の権威は失墜し、その弊害はあえていうべきものもなく甚だしいものとなった。ところが、明治維新で諸藩が領土を朝廷に返還し、1871年(明治4)になって以前の郡県制に戻った。世襲で働かずに生活していた武士は、俸禄を減らし、刀剣を腰からはずすことを許し、士農工商の四民にようやく自由の権利を持たせようとしている。これは上下の身分差をなくし、人権を平等にしようとする方法で、とりもなおさず武士と農民を一体化する基礎である。これで旧来の武士は武士でなく、民は旧来の民ではなく、平等に皇国一般の民であって、報国の道も違いはないのである。およそこの天地にあるすべてのもので、税のかからないものはなく、その税は国費にあてられる。従って人間である以上、心身ともに尽くして国に報いるべきである。西洋人はこれを血税と呼んでいる。その生き血で国に尽くすという意味である。一方では、国家に災害があれば、人々はその災害の一端を受けざるを得ず。これが為に人々は心や力を尽し、国家の災害を防ぐには、すなわち自己の災害を防ぐの基本であることを知ることである。いやしくも国があればすなわち兵備が必要であり、兵備があればすなわち 人々がその役に就かざるを得ないのである。ここによって、これを観れば、民兵の法たる、もとより自然の道理であって、予期しないで作り上げられたのではない。そこで徴兵制のような、古今を斟酌し、時節に従って、変更しないわけにはいかない。西洋諸国では数百年来研究・実践して兵制を定めてきた。ゆえに、その法は極めて精密である。しかしながら、政治形態や地理の異なることもあり、すべてこれを用いるべきではない。だから今、その長所を取りいれて日本古来の軍制を補い、陸海の二軍を備え、全国民の20歳になった男子はすべて兵籍に編入し、国家の危急に備えるべきである。郷長・里正、厚く此の御趣意を奉って、徴兵令によって、庶民に説き聞かせ、国家保護の根本を知らしめるべきものである。

 明治5年(壬申)11月28日

☆主要な「血税一揆」一覧

<1873年(明治6)>
・3月初発 三重県牟婁郡神内村
・5月26日~6月2日 岡山県美作地方―数万人参加、2万7千人処罰(内死刑15人)
・6月19日~23日 鳥取県会見郡―1万2千人参加、1万9百5人処罰
・6月27日~7月6日 香川県7郡―処罰者約2万人(内死刑7人)

<1874年(明治7)>
・12月 高知県幡多郡
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 今日は、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、戦時標語である「国民決意の標語」懸賞募集の入選と佳作が紙面上に発表された日です。
 これは、「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙が「国民決意の標語」を懸賞募集(入選は賞状ならびに副賞金が100円(公債)、佳作は副賞金20円(公債))し、広告が11月15日の各紙面に出されたものでした。
 その結果、4日間で32万以上の応募があり、その中から、以下の入選10点と佳作20点が選ばれ、11月27日付の紙面上に発表され、町内・職場等に掲示されました。入選作は、以下の10点です。

<入選10点>
・「欲しがりません勝つまでは」
・「さあ2年目も勝ち抜くぞ」
・「たつた今!笑って散った友もある」
・「ここも戦場だ」
・「頑張れ!適も必死だ」
・「すべてを戦場へ」
・「その手ゆるめば戦力にぶる」
・「今日も決戦 明日も決戦」
・「理窟言う間に一仕事」
・「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」

〇戦時標語とは?

 戦時下において、国民向けに主張・信条や行動の目標、指示内容などをわかりやすく簡潔に言い表した語句(スローガン)のことです。
 日本では、日中戦争から太平洋戦争配線までにまで、戦意高揚・生活統制・精神動員のため盛んに作られました。
 1937年(昭和12)7月の日中戦争開始後、「国民精神総動員運動」が展開され、「挙国一致」「尽忠(じんちゅう)報国」「堅忍(けんにん)持久(じきゅう)」の国策標語が掲げられました。
 1938年(昭和13)5月1日に、ガソリン切符制が実施されと、「ガソリン1滴は血の1滴」の標語が登場します。
 1940年(昭和15)に至り、日中戦争長期化による物資不足が深刻になってくると、国民精神総動員本部は、「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」「ぜいたくは敵だ!」「パーマネントはやめませう」などの標語をつくり、街頭に国民生活の在り方を規制する看板を立てました。同年11月10日には、紀元2600年祝賀行事が行われ、その前後に「祝へ元気に朗らかに」、「祝ひ終った、さあ働かう」のポスターが張り出されます。
 1941年(昭和16)になると、「人口政策要綱」が閣議決定され、「生めよ殖やせよ国のため」の標語も登場します。同年12月8日に太平洋戦争が始まると、大政翼賛会による「進め一億火の玉だ」「屠(ほう)れ!米英我等の敵だ」も掲げられました。
 1942年(昭和17)には、「大東亜戦争一周年記念」の企画として、大政翼賛会と各新聞社が「国民決意の標語」を懸賞募集し、32万以上の応募の中から、「欲しがりません勝つまでは」「頑張れ!敵も必死だ」など入選10点と佳作20点が選ばれ、町内・職場等に掲示されました。
 1943年(昭和18)2月23日には、陸軍省が「撃ちてし止まむ」の決戦標語ポスター5万枚を全国に配布し、同年4月に連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死すると「元帥の仇は増産で(討て)」がスローガンとなります。
 1944年(昭和19)には、アメリカ軍の反撃によって、戦局が厳しくなり、「本土決戦」、「鬼畜米英をうて」、「一億玉砕」、「神州不滅」などが叫ばれるようになり、敗戦へと向かうことになりました。

☆代表的な戦時標語一覧(日中戦争~太平洋戦争)

<1937年(昭和12)>
・「挙国一致」
・「尽忠(じんちゅう)報国」
・「堅忍(けんにん)持久(じきゅう)」
・「銃執れ 鍬(くわ)執れ ハンマー執れ」 和歌山県
・「黙って働き 笑って納税」 税務署による標語

<1938年(昭和13)>
・「ガソリン1滴は血の1滴」 5月1日のガソリン切符制実施に伴うもの

<1939年(昭和14)>
・「遂げよ聖戦 興せよ東亜」 大阪朝日新聞社
・「子よ孫よ 続けよ建てよ 新東亜」 大阪朝日新聞社
・「聖戦へ 民一億の体当たり」 読売新聞社
・「聖戦だ 己殺して国生かせ」 読売新聞社
・「飲んでて何が非常時だ」 日本国民禁酒同盟

<1940年(昭和15)>
・「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」 国民精神総動員本部
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部が「奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)」のため作成
・「パーマネントはやめませう」 国民精神総動員本部
・「リつばな戦死とゑがほの老母」 名古屋市銃後奉公会
・「一億が みんな興亜へ散る覚悟」 京都府
・「贅沢品より代用品」 中央標語研究会
・「身にはボロ着て心に錦」 中央標語研究会
・「米が足りぬにまだ飲むか」 日本国民禁酒同盟
・「赤い顔から赤字出る」 日本国民禁酒同盟
・「祝へ元気に朗らかに」 大政翼賛会が紀元2600年祝賀行事前に作成
・「祝ひ終った、さあ働かう」 大政翼賛会が紀元2600年祝賀行事後に作成

<1941年(昭和16)>
・「生めよ殖やせよ國のため」 9月2日に厚生省が発表
・「進め一億火の玉だ」 大政翼賛会
・「屠れ!米英我等の敵だ」
・「酒屋太れば妻子は痩せる」 日本国民禁酒同盟
・「増える酒量に減る寿命」 日本国民禁酒同盟
・「酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫」 日本国民禁酒同盟
・「働いて 耐えて笑って 御奉公」 標語報国社

<1942年(昭和17)>
・「欲しがりません勝つまでは」 国民決意の標語入選作
・「さあ2年目も勝ち抜くぞ」 国民決意の標語入選作
・「たつた今!笑って散った友もある」 国民決意の標語入選作
・「ここも戦場だ」 国民決意の標語入選作
・「頑張れ!適も必死だ」 国民決意の標語入選作
・「すべてを戦場へ」 国民決意の標語入選作
・「その手ゆるめば戦力にぶる」 国民決意の標語入選作
・「今日も決戦 明日も決戦」 国民決意の標語入選作
・「理窟言う間に一仕事」 国民決意の標語入選作
・「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」 国民決意の標語入選作
・「正しき血から 強い民族」 日本カレンダー株式会社
・「よい児殖やして 興亜をリレー」 日本カレンダー株式会社
・「産んで殖やして育てて皇楯」 中央標語研究会
・「米英を消して明るい世界地図」 大政翼賛会神戸市支部

<1943年(昭和18)>
・「撃ちてし止まむ」 2月23日に陸軍省が発表
・「元帥の仇は増産で」 山本五十六戦死後
・「アメリカ人をぶち殺せ!」 主婦之友
・「嬉しいな僕の貯金が弾になる」 大日本婦人会朝鮮慶北支部
・「初湯から 御楯と願う 国の母」 仙台市
・「進め一億 火の玉だ」 大政翼賛会
・「なにがなんでもやりぬくぞ」
・「ぜいたくは敵だ!」 国民精神総動員本部
・「頑張れ! 敵も必死だ」
・「血の犠牲 汗で応えて 頑張らう」 大阪翼賛神戸支部
・「一億抜刀 米英打倒」 北海道新聞社
・「我が家から敵が討てるぞ経済戦」 大日本婦人会

<1944年(昭和19)>
・「本土決戦」
・「鬼畜米英をうて」
・「一億玉砕」
・「神州不滅」
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 今日は、1906年(明治39)に南満洲鉄道株式会社(満鉄)が設立された日です。
 この鉄道会社は、1905年(明治38)のポーツマス条約(日露講和条約)によって日本がロシアから譲渡された利権に基づき、翌年11月26日に設立された国策会社で、日本の中国侵略の足掛りとなりました。
 日露戦争の結果、帝政ロシアが経営していた東清鉄道の一部 (旅順-長春) とその支線及び撫順・煙台などの炭鉱経営等を担う機関として、1906年(明治39)6月8日公布の勅令「南満洲鉄道株式会社ニ関スル件」(明治39年勅令第142号)によって資本金2億円 (うち政府現物出資1億円) で特殊法人として設立され、翌年4月1日に営業を開始します。
 初代総裁は後藤新平で、鉄道経営だけでなく、10kmにつき15人の駐兵権をもち、沿線の鉄道付属地では、中国人の介入を許さない行政権が与えられました。本社は、関東州大連市に置かれ、支社は日本では東京に東京支社、満州国の成立後は首都・新京に新京支社が設置されます。
 最初は、大連(だいれん)~孟家屯(もうかとん)、安東(あんとう)~奉天(ほうてん)間などを手始めに鉄道運行が開始され、1911年(明治44)11月には朝鮮総督府鉄道との連絡がなり、新義州(しんぎしゅう)~安東間が開通しました。
 さらに 1916年(大正5)には鞍山製鉄所を開設して事業を拡大、また、満州特産の大豆、豆粕、豆油の日本への供給にも寄与し、1920年代には多数の傘下企業を擁する一大コンツェルンとなります。
 1931年(昭和6)の満州事変勃発後は関東軍と密接に結びつき、翌年の満州国樹立とともにその研究・技術陣の総力を結集して経済政策に協力し、鉄道部門は満州国の国有とされて、満鉄が委託経営をする形となりました。
 1937年(昭和12)に重工業部門を満州重工業開発に移譲しましたが、太平洋戦争末期には、資本金14億円、総資産約40億円、従業員39万8千人 (内日本人14万人) 、鉄道営業キロ数11,479km、自動車同約2万km、水運同4,686kmで、他に港湾、炭鉱、不動産、調査・研究、学校、病院などの事業を経営しています。
 しかし、敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に、 連合国最高司令部(GHQ)の指令に基づき、閉鎖機関に指定され、中国長春(チャンチュン)鉄路に接収されて消滅しました。
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