富士山は、山梨県と静岡県境にあるある安山岩質の成層火山(標高3,776m)で、活火山の常時観測火山として知られ、過去に何度も噴火を繰り返してきました。中でも、史上最大の噴火は江戸時代中期の宝永噴火と言われていますが、それ以降は噴火が起きずに現在に至っています。
宝永噴火は、1707年(宝永4)11月23日の朝10時頃、富士山南東側斜面5合目付近に亀裂が発生し(宝永火口)、そこから爆発的噴火が始まりました。それが12月9日まで約2週間続き、総噴出物量は約17億立方m、噴出した火山灰は、約1.7立法kmと推定されています。
火山灰は、駿河国小山で3m、約50km離れた相模国伊勢原で30cm、約90km離れた武蔵国川崎でも5cm、江戸でも2~4cm、房総半島でも少し積もりました。江戸では降灰が10日以上続き、降ってくる火山灰と風で巻き上げられた堆積火山灰のため、関東一円に呼吸器疾患が大流行していますし、農作物の被害も甚大だったとされています。さらに、神奈川県の河川では降雨により降り積もった火山灰が流入し、土砂災害が頻発しました。
江戸でも噴火の強い地震、鳴動、爆発音、空振がしきりに感じられ、黒雲が天を覆い、噴火開始の数時間後から灰白色の灰に引き続いて、灰黒色の灰が降り、昼間も灯火を用いたなどと新井白石著の随筆『折たく柴の記』、伊藤祐賢著『伊藤志摩守日記』などに記されています。
宝永噴火の49日前には、マグニチュード8.7の地震(宝永東海地震)が起きていて、この噴火と関連するものとされました。
尚、富士山には歴史上10回ほどの噴火の記録が残されていますが、延暦の大噴火(800年~802年)と貞観の大噴火(864年~866年)と並んで、宝永噴火は富士山三大噴火の一つとされています。
〇随筆『折たく柴の記』新井白石著の富士山宝永噴火の記述
宝永四年十一月二十三日午後参るべき由を仰せ下さる。よべ地震ひ、此日午の時雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ。此日は大城に参らせ給ひ、未の半に還らせ給ひ、此日吉保朝臣の男、二人叙爵のありし故なり。やがて御前に参るに、天甚だ暗かりければ、燭を挙て講に侍る。戌の時ばかりに、灰下る事はやみしかど、或は地鳴り、或は地震ふ事は絶ず。二十五日に、また天暗くして、雷の震するごとくなる声し、夜に入りぬれば、灰また下る事甚し。「此日富士山火出て焼ぬるによりて」という事は聞えたりき。これよりのち、黒灰下る事やまずして、十二月の初におよび、九日の夜に至て雪降りぬ。此ほど世の人咳嗽をうれへずといふものあらず。かくて年明けぬれば、戊子(宝永五年)正月元旦、大雨よのつねならず。閏正月七日、去年富士山のやけしによりて、ほとりの国々の地埋みし灰砂を除はるべき役を諸国に充らる。武相駿三州の地のため也。百石の地より黄金二両を献らすべしと也。
<現代語訳>
宝永4年(1707年)11月23日、午後、(甲府藩主徳川綱豊、のちの江戸幕府第6代将軍家宣より)参上せよと仰せがあった。昨夜、地震があり、この日の昼12時頃、雷鳴が聞こえた。家を出る時分には、雪が降っているように見えるので、よく見ると、白い灰が降っているのである。西南の方を見ると、黒雲がわき起こり、雷光がしきりに起こった。江戸城西ノ丸にたどり着くに及んでは、白い灰が地を覆いつくし、草木もまたみんな白くなっていた。この日、殿(徳川綱豊公)は本丸に出られ、午後二時頃に戻られたが、この日柳沢吉保殿の子息二人が位を授かった故のことであり、やがて御前に参上すると、空がとても暗いので、明かりをつけて講義をした。午後8時ごろに、灰の降るのは収まったが、大地の鳴動や地震は止むことがなかった。25日に再び空が暗くなって、雷鳴のような音がし、夜になると、灰がまた甚だしく降った。「この日、富士山が噴火して、焼けたためだ」ということが伝わった。その後、黒い灰の降ることがやまず、十二月の初め、九日の夜になって雪が降った。このころ、世間の人で咳になやまされない者はなかった。このようにして年が明けると、宝永5年正月元旦、尋常でない大雨であった。閏の正月7日、去年の富士山の噴火により、この付近の国々の土地を埋めた灰や砂を除去するための課役を、諸国に割り当てられたが、武蔵・相模・駿河の三国の土地のためであり、百石の土地につき金二両ずつ献納すべしということであった。