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 今日は、1913年(大正2)に、江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の亡くなった日です。
 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸時代後期の1837年(天保8)9月29日に、常陸水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男(母は有栖川宮王女登美宮吉子)として、小石川の江戸藩邸で生まれましたが、幼名は七郎麿と言いました。
 水戸弘道館で学んだのち、1847年(弘化4)に一橋家を相続し、慶喜と改名します。13代将軍徳川家定の死後、14代将軍の継嗣をめぐって慶福(のち徳川家茂)を擁立する井伊直弼ら紀伊派と対立しましたが敗れました。
 1859年(安政6)の安政の大獄に際しては隠居謹慎を命じられましたが、翌年の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると解除されます。1862年(文久2)に将軍後見職として徳川家茂(いえもち)を補佐するようになり、1866年(慶応2)に家茂が亡くなると、将軍宣下を受け15代将軍に就きました。
 フランス公使レオン・ロッシュの助言をいれて幕政の改革に着手するものの、薩摩藩・長州藩と対立します。
 翌年に大政を奉還して将軍職を辞任、王政復古の政変後は大坂城に入りました。1868年(慶応4)の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸開城後は水戸で謹慎し、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲り駿府に移ります。
 1869年(明治2)謹慎を解かれましたが、以後表舞台にはたたず、放鷹、油絵、写真などの趣味に生きました。1897年(明治30)に東京の巣鴨に移り住み、1901年(明治34)に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の屋敷に転居しました。
 1902年(明治35)には公爵に叙せられ、徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就きましたが、1910年(明治43)、七男の慶久に家督を譲って、議員を辞しています。
 その後、隠居生活の中で再び趣味に没頭しましたが、1913年(大正2)11月22日に、東京において、76歳で亡くなりました。

〇徳川慶喜関係略年表(日付は明治5年まで旧暦です)

・1837年(天保8)9月29日 水戸藩主徳川斉昭の7男として、小石川の江戸藩邸で生まれる
・1838年(天保9)4月 江戸から水戸に移る
・1847年(弘化4)9月1日 一橋家を相続する
・1847年(弘化4)12月1日 12代将軍徳川家慶から偏諱を賜わり、慶喜と改名する
・1853年(嘉永6) 12代将軍徳川家慶が病死し、その跡を徳川家定が継いで13代将軍となる
・1858年(安政5)4月23日 井伊直弼が大老となる
・1858年(安政5)6月25日 井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決する
・1858年(安政5)7月6日 13代将軍徳川家定が亡くなる
・1858年(安政5)12月1日 徳川家茂が14代将軍となる
・1859年(安政6) 安政の大獄に際して隠居謹慎を命じられる
・1860年(安政7)3月3日 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される
・1860年(万延元)9月4日 謹慎を解除される
・1862年(文久2) 将軍後見職として14代将軍徳川家茂を補佐するようになる
・1863年(文久3) 朝廷の攘夷督促に対して自ら開国を説くべく上洛して朝廷と折衝する
・1863年(文久3)8月18日 八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥される
・1864年(元治元)3月25日 将軍後見職を辞任、新設の禁裏守衛総督に任命される
・1864年(元治元)7月 禁門の変で活躍する
・1866年(慶応2)7月20日 14代将軍徳川家茂が亡くなる
・1866年(慶応2)12月5日 将軍宣下を受け15代将軍に就く
・1867年(慶応3) フランス公使レオン・ロッシュの意見を容れながら幕政改革に着手する
・1867年(慶応3)10月 大政を奉還して将軍職を辞任する
・1867年(慶応3)12月 王政復古の政変後は大坂城に入る
・1868年(慶応4)1月 鳥羽・伏見の戦いで敗れる
・1868年(慶応4)2月 恭順の態度を示し上野寛永寺に屏居する
・1868年(慶応4)4月11日 江戸開城後は水戸で謹慎する、
・1868年(慶応4)7月 徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲り、駿府に移って謹慎する
・1880年(明治13) 正二位に叙せられる
・1897年(明治30)11月 東京の巣鴨に移り住む
・1898年(明治31) 皇居となった旧江戸城に参内し、明治天皇と面会する
・1901年(明治34)12月 小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の屋敷に転居する
・1902年(明治35) 公爵に叙せられ、徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就く
・1910年(明治43)12月8日 七男の慶久に家督を譲って、議員を辞職する
・1913年(大正2)11月22日 東京において、76歳で亡くなる