これは、国立銀行について定めた太政官布告(明治5年太政官布告第349号)のことで、不換紙幣の整理と金融の疎通を図るために、アメリカの国法銀行制度(national banking system)をモデルとして作られたものでした。
この背景には、明治新政府が明治維新当初の戊辰戦争等で、各種の政府紙幣を乱発し、価値が低下したことがあり、それを回収し、代って兌換銀行券を流通させて通貨価値を安定させ、殖産興業資金を供給する迫られたことがあります。
そのためにこの条例には、ヽ式会社組織をとる、∋駛楸發60%を政府紙幣で出資、これを政府に納付して、同額の金札引換公債を受領し、同公債を抵当に国立銀行券を発行する、資本金の40%を正貨で出資、銀行券の兌換(だかん)準備にあてる、と券業務のほか、預金、貸出、為替(かわせ)などの通常の銀行業務を営むこと、などが規定されました。
これに基づき、渋沢栄一が1873年(明治6)に日本初の国立銀行である第一国立銀行を設立しましたが、当初この条例に基づいて設立された国立銀行は4行にすぎず、政府紙幣回収の効果はあまり上がらなかったのです。
そこで、1876年(明治9)に「国立銀行条例」を改正(明治9年太政官布告第106号)して、正貨兌換を政府紙幣兌換に改めました。この結果、多数の国立銀行が設立され、国立銀行券の発行高は増加します。
ところが、1877年(明治10)の西南戦争の軍費として政府紙幣が増発されインフレーションを招いたので、政府は国立銀行の総資本額を限定するとともに、1879年(明治12)の第百五十三国立銀行の設立を最後に国立銀行設立免許を停止しました。
1882年(明治15)の日本銀行設立とともに銀行券の発行を同行のみに限定することとし、翌年には「国立銀行条例」を再改正し、営業年限は開業日より20年、発行紙幣は営業年内に回収、以後は普通銀行に転換すべきものとします。これによって国立銀行は、1899年(明治32)までに「銀行条例」 (1890年公布) に基づく普通銀行に移行しました。