これは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策の1つとして、「侵略戦争の経済的基盤」になったとされる財閥を解体することで、日本経済の民主化を進めようとするものでした。まず占領が始まった初期に、GHQ経済科学局長であったレイモンド・C・クレーマー大佐が「侵略戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体を求めた声明を発し、日本側の自発的な財閥解体を要求します。
対象になった財閥は、三井財閥、岩崎(三菱)財閥、住友財閥、安田財閥の四大財閥でしたが、日本政府が消極的な中で、三井財閥では三井本社の解体論が出され、安田保善社(安田財閥の持株会社)は、1945年(昭和20)10月15日に自社の解散、安田一族の保善社及び傘下企業役員からの辞任、及び一族保有の株式を公開する方針を決定されました。その中で、日本政府は11月4日に、安田案を基にした財閥解体計画案をGHQに提出しましたが、①持株会社所有の有価証券、及びあらゆる企業に対する所有権・管理・利権を示す商標を、日本政府が設ける機関に移管する。②上記移管財産に対する弁済は、10年間の譲渡・換価を禁じた登録国債で支払う。③三井、岩崎(三菱)、住友、安田4家構成員、持株会社取締役・監査役の産業界からの追放。④持株会社は傘下企業に対する指令権・管理権の行使を禁止する。の4つを骨子とするものとなります。
そして、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府案を修正し、11月6日に監督・検閲権を留保する事を条件に、日本政府案を承認して、「持株会社の解体に関する覚書」(SCAPIN-244)となりました。その後、日本政府は11月23日に、「会社ノ解散ノ制限等ノ件」(勅令第657号)を公布し、大蔵大臣に①資本金500万円以上の会社及び大蔵大臣の指定する会社の解散または事業譲渡に対する認可権、②三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社及び大蔵大臣の指定する会社が保有する動産・不動産・有価証券など財産の処分に対する許可権を与え、財閥解体が進められることとなります。
財閥解体作業は、翌年8月に発足した持株会社整理委員会により執行されることとなり、まず内閣総理大臣は、9月6日に、第一次として三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社、富士産業(旧・中島飛行機)の5社を持株会社に指定しました。続いて、第二次として、12月7日に4大財閥に継ぐ規模の財閥やいわゆる新興コンツェルンなどの持株会社など40社が指定されます。
さらに、12月28日の第三次では、財閥傘下で、独占・寡占的地位にあって、それまでの対象にならなかった企業20社が指定され、1947年(昭和22)3月15日の第四次で、電気通信施設の国有化政策に基づく2社、同年9月26日の第5次で、地方財閥・小規模財閥を対象とした16社が指定され、合計で83社となりました。これによって、持株会社の解体、財閥家族所有の株式の買い上げ、財閥家族の役員就任の禁止、商号使用禁止、企業規模の制限などが行われていきます。
これと並行して、「過度経済力集中排除法」(1947年(昭和22)12月18日に公布・施行)による巨大企業の分割も行われましたが、占領政策の転換に伴い空文化していきました。
〇「過度経済力集中排除法」(1947年(昭和22)12月18日に公布・施行)とは?
太平洋戦争後、占領軍による経済民主化政策の一環として、いわゆる財閥解体をはかるために、昭和時代中期の1947年(昭和22)12月18日に公布施行された法律です。
この第一条において、「平和的且つ民主的な国家を再建するための方策の一環として、できるだけ速やかに過度の経済力の集中を排除し、国民経済を合理的に再編成することによつて、民主的で健全な国民経済再建の基礎を作ることを目的とする」と定められていました。
戦時下の企業整備などにより規模が過大となっていた巨大独占企業を分割するための手続を定め、当初は鉱工業、商業、サービス部門の大企業のすべてを網羅した325社が分割の対象として指定されます。
しかし、その後の占領軍対日政策の転換などにより、実際に分割されたのは12社に留まり、実効性不十分な状態で、1955年(昭和30)にこの法律は廃止されました。
「独占禁止法」により持株会社は禁止されたので、コンツェルンの形での財閥は姿を消しましたが、その後も、三井財閥、住友財閥、三菱財閥などは株式を持ち合う企業グループという形で温存されることになります。